村井実『道徳は教えられるか』

 したがって私たちは、生徒がより広く、より深く、より高度な「理解」に到達することを望み、そのために最善をつくしはするけれども、生徒が間違いを犯したり、問題の解決に失敗したりしないことを保証することができるわけではない。これが私たちが「教える」という言葉を使用するばあいの普通の意味である。つまり、「教える」という言葉は、実践的な行為の保証という点に関しては、本来きわめて制限された意味しかもたないと言うことができるのである。
 こうしてみると、この本来的に制限された意味しかもたない「教える」という言葉を、道徳に関するばあいに限って、無制限の意味に使用する理由はどこにあるであろうか。子どもが道徳的に不都合な行為をすれば、その子どもはたちまち厳しい非難の対象となるだけでなく、それは、学校において道徳をよく「教え」られていないからであるといわれる。そして、この種の非難に対して、先生方もまた、実に弱いのである。