井田真木子『フォーカスな人たち』「太地喜和子」

 太地は南紀の姓である。
 紀伊半島の東南部に太地町がある。土地の大庄屋であった太地一族は同地を拠点として一八世紀前半から捕鯨を始めた。
 産業捕鯨の祖とされる四代目当主、角右衛門頼勝から、太地に代々住居を置く本家筋が十一代目まで続き、別途、太地家が米作地を開墾した鵜殿村に通称〝鵜殿太地〟と呼ばれる分家筋が住んだ。鵜殿は和歌山と三重の県境の三重県側に位置し、日本一面積の小さな村として、また、現在では紀州製紙の企業城下村として知られている。
 太地一族は、およそ百五十年間、捕鯨によって栄えたが、明治十一年、死者百名以上を出す大海難事故をおこし、その賠償のために没落する。太地家の人々は、それぞれ太地町や鵜殿村を出て、ある者は新宮市で新しい生活を始め、別の者は他の地方に活路を求めた。
 太地の父、喜一の祖父・太地忠右衛門(ちゅうえもん)は、鵜殿の北部の浅里村の大庄屋尾崎義晟(よりなり)の三男で、のち鵜殿村の太地柳兵衛の養子となって同家を継いだ。その三男・友松が喜一の父である。喜一は新宮で生まれ、生後一年で戸主となった。廻船業を営んでいた父が水難事故で亡くなったためである。喜一は三男二女の末子だが、兄弟姉妹は長姉のみを残してすべて嬰児のうちに死亡した。父を失った喜一は、長姉と母の三人家族で新宮を離れ、昭和十四年、東京で稔子と結婚する。四年後にさずかった長女に、喜一は喜の一字を与えた。名前に喜が残るのは〝鵜殿太地家〟の伝統である。
 喜一の生涯は、没落名家の最後の一人としての生涯とも言いうる。
 彼は一歳で戸主になったとき、文政十三年に没した太地柳兵衛(りゅうべえ)から始まる十三名もの縁者の墓守りを引き受けた。墓は、喜一が子供の頃には、新宮市海浜沿いにある共同墓地にあったが、一九七六年に、喜一の手で東京・巣鴨の勝林寺に移されている。
 父祖に対して負った義務は大きかったが、処世は終生地味だった。都営住宅に住み、休日は読書を楽しみ、真面目一方の仕事ぶりだった。それは、市井に生きる人の暮しとしては過不足がない。平凡そのものであり、他人に不都合をかけるような暮しとは無縁だが、ただ一人、彼の娘だけにとって不都合だった。
 なぜか。
 女優の父親は、なんであれ、そのように平凡であってはならないからである。