白樂天「太行路(たいかうろ)」(全) (田中克己)

太行の路よく車を摧くも
もし人の心に比すればこれ坦途。
巫峽の水よく舟を覆すも
もし人の心に比すればこれ安流。
人の心の好惡はなはだ常ならず
好めば毛羽を生じ惡めば瘡を生ず。
君と結髮いまだ五載ならざるに
たちまち牛女より參商となる。
古より稱す「色衰ふればあひ棄背す」
當時の美人なほ怨悔す。
なんぞ況や如今 鸞鏡の中
妾が顔いまだ改まらざるに君の心改まる。
君がために衣裳を薫ずれば
君 蘭麝を聞いて馨香とせず。
君がために容飾を盛にすれば
君 金翠を看て顔色なしとす。
行路難
重ねて陳べがたし。
人生 婦人の身となるなかれ
百年の苦樂 他人に由る。
行路難
山よりも難く
水よりも險し。
ひとり人間の夫と妻とのみならず
近代の君臣もまたかくのごとし。
君 見ずや左の納言 右の納史
朝に恩を承け暮に死を賜ふを。
行路難
水にあらず山にあらず
ただ人情反覆の間にあり。


たいかうのみちよくくるまをくだくも
もしひとのこころにひすればこれたんと。
ふけふのみづよくふねをくつがへすも
もしひとのこころにひすればこれあんりう。
ひとのこころのかうをはなはだつねならず
このめばまううをしゃうじにくめばさうをしゃうず。
きみとけっぱついまだごさいならざるに
たちまちぎうぢょよりしんしゃうとなる。
いにしへよりしょうす「いろおとろふればあひきはいす」
たうじのびじんなほゑんくゎいす。
なんぞいはんやじょこん らんきゃうのうち
せふがかんばせいまだあらたまらざるにきみのこころあらたまる。
きみがためにいしゃうをくんずれば
きみ らんじゃをきいてけいかうとせず。
きみがためにようしょくをさかんにすれば
きみ きんすゐをみてがんしょくなしとす。
かうろなん
かさねてのべがたし。
じんせい ふじんのみとなるなかれ
ひゃくねんのくらく たにんによる。
かうろなん
やまよりもかたく
みづよりもけはし。
ひとりじんかんのふとさいとのみならず
きんだいのくんしんもまたかくのごとし。
きみ みずやひだりのなふげん みぎのなふし
あしたにおんをうけくれにしをたまふを。
かうろなん
みづにあらずやまにあらず
ただにんじゃうはんぷくのかんにあり。


太行之路能摧車
若比人心是坦途
巫峽之水能覆舟
若比人心是安流
人心好惡苦不常
好生毛羽惡生瘡
與君結髮未五載
忽從牛女爲參商
古稱色衰相棄背
當時美人猶怨悔
何況如今鸞鏡中
妾顔未改君心改
爲君薫衣裳
君聞蘭麝不馨香
爲君盛容飾
君看金翠無顔色
行路難
難重陳
人生莫作婦人身
百年苦樂由他人
行路難
難於山
險於水
不獨人間夫與妻
近代君臣亦如此
君不見左納言右納史
朝承恩暮賜死
行路難
不在水不在山
只在人情反覆間


太行山(たいこうさん)中の路は車輪がくだけるほどけわしいが
人間の心の危険なのにくらべると平坦な道である。
巫峡(ふきょう)の水は舟を顚覆させるほど危険だが
人間の心の危険なのにくらべると安らかな流れである。
人間の心中の愛憎はひどく変化する。
気にいるとあばたもえくぼだし、憎めばきずをほじくり出す。
あなたにとついで五年にならないのに
仲よい牽牛(けんぎゅう)・織女(しょくじょ)の二星から、たちまち参星(しんせい)と商星(しょうせい)のように合わなくなった。
むかしからいうことに「顔が汚くなれば棄てられる」と
そのころの美人がうらみ悔いたことである。
しかし今では鏡を見ても
わたしの顔はまだかわっていないのにあなたの心がかわったのだ。
あなたのために衣裳に香をたきこめた。
その蘭麝(らんじゃ)のにおいをかいでもあなたはいいにおいと思ってくれない。
あなたのために化粧や飾りをこらした。
その金やひすいを見てもあなたは見られたものでないという。
人生行路のむつかしいこと
二度とはいえないほどだ。
人間は女に生まれてくるものではない。
一生の苦楽は他人まかせだから。
人生行路のむつかしいこと
山路よりも困難で
水上より危険だ。
これは世間の夫婦だけのことでなく
近ごろの君臣の間がらもそうなのだ。
ご存じだろうが君主の左右にいる納言(のうげん)や内史(ないし)などの役人が
朝は召し出されて夕方には死刑を申しわたされる。
人生行路のむつかしいこと
それは水上や山中のことでなく
人間の気持ちの変わりやすいところにあるのだ。