杜甫「玉華宮(ぎょくくゎきゅう)」(全) (目加田誠)

溪廻りて松風長し
蒼鼠 古瓦に竄る
知らず何王の殿ぞ
遺構 絶壁の下
陰房 鬼火青く
壞道 哀湍瀉ぐ
萬籟 眞の笙竽
秋色 正に瀟灑たり
美人も黄土と爲る
況や乃ち粉黛の假なるをや
當時 金輿に侍せしもの
故物 獨り石馬のみ
憂へ來って草を藉いて坐し
浩歌して涙把に盈つ
冉冉たる征途の間
誰か是れ長年の者ぞ


たにめぐりてしょうふうながし
さうそ こぐゎにかくる
しらずなにわうのでんぞ
ゐこう ぜっぺきのもと
いんばう きくゎあをく
くゎいだう あいたんそそぐ
ばんらい しんのしゃうう
しうしょく まさにせうしゃたり
びじんもくゎうどとなる
いはんやすなはちふんたいのかなるをや
たうじ きんよにじせしもの
こぶつ ひとりせきばのみ
うれへきたってくさをしいてざし
かうかしてなみだはにみつ
ぜんぜんたるせいとのかん
たれかこれちゃうねんのものぞ


溪廻松風長
蒼鼠竄古瓦
不知何王殿
遺構絶壁下
陰房鬼火青
壞道哀湍瀉
萬籟眞笙竽
秋色正瀟灑
美人爲黄土
況乃粉黛假
當時侍金輿
故物獨石馬
憂來藉草坐
浩歌涙盈把
冉冉征途
誰是長年者


 谷はめぐって流れ、松風は颯々(さつさつ)として吹きわたる。老鼠(ろうそ)は人影におどろいて、古い瓦のかげにかくれる。ここはまあ何王の宮殿だったのか。絶壁の下に、荒れはてた建物がくずれかかって残っている。
 北むきのうす暗い部屋には燐が燃え、こわれた石だたみの道には、水が早瀬になって、むせぶような哀しい音を立ててそそいでいる。その昔、ここに仕えた美女たちも、みなすでに黄土と化した。況んや紅白粉(べにおしろい)の化粧の仮の美しさなど、何一つ跡方もない。当時太宗の乗物に侍(はべ)ったものとては、ただ石に刻んだ馬が立っているばかりだ。
 旅の道すがらここに立ち寄り、草をしいて坐し、声高く歌うたえば、涙は手にあふれるばかり。ああ思えばしばしとどまる暇もなく、歩みつづける人の世の旅路にあって、誰が果たして永きいのちを保ちうるものぞ。わがいのちも、世のすがたも、すべてはたちまちに亡び去るものではないか。