「蓼莪(りくが)」(「『詩經』 小雅 谷風之什(こくふうのじふ)」より)(抄) (高田眞治)
蓼蓼たるは莪 莪に匪ず伊れ蒿
哀哀たる父母 我を生みて劬勞す
りくりくたるはが がにあらずこれかう
あいあいたるふぼ われをうみてくらうす
蓼蓼者莪 匪莪伊蒿
哀哀父母 生我劬勞
生い茂る莪(わかな)。柔らかくて味の良い美菜の莪(わかな)を作ったのに、いつの間にか大きくなって、葉の堅い蒿(よもぎ)となってしまって、煮ても食べられるものではない。父母は我を愛育して、良き人となるように苦労して育てたのに、我等小供は、図体ばかり大きくなって、何一つ父母の恩に報ゆることの出来ないことに喩えたのである。其の父母も、今や亡き人となった。痛わしき悲しき父母は、我を生んで苦労を重ねられたのであった。
蓼蓼たるは莪 莪に匪ず伊れ蔚
哀哀たる父母 我を生みて勞瘁す
りくりくたるはが がにあらずこれゐ
あいあいたるふぼ われをうみてらうすゐす
蓼蓼者莪 匪莪伊蔚
哀哀父母 生我勞瘁
生い茂る莪(わかな)のよい草なれかしと育てたのは、莪ではなくて、粗大な蒿(おとこよもぎ)の役にも立たぬ草になってしまった。痛わしく哀しき父母よ。父母は我を生んで育てあげながら病み労れてしまわれた。