ヘンリー・ミラー『薔薇の十字架 I セクサス』(大久保康雄 訳)

会話というものは、別の、もっと微妙な思想交流の口実にすぎない。後者がうまく働かないと、言葉も死んでしまうのである。もし、ふたりの人間が、たがいに思想を交流させようと熱心であれば、会話がどんなに困るようなことになってきたところで、すこしもそれは問題にならない。明晰と論理とを強調する人たちは、往々にして自己を理解させるのに失敗するものである。彼らはつねに精神が思想を交換するための唯一の道具であるという仮定に迷わされて、より完全な伝達物を探し求める。人がほんとうに話をはじめるときには、自己を相手に引き渡すのである。言葉は、バラ銭のように、いちいち勘定せずに、めったやたらに放り出されるのである。文法上の誤りや事実上の誤り、矛盾、虚構など、そんなものは一向気にしない。だた、しゃべるのである。きき上手の人を相手に語っている場合には、たとえ言葉がなんの意味をなさなくとも、完全に理解してもらえる。そのように話がうまく進行すると、相手が男であろうと女であろうと、そこには密接な結合が生れる。男同士の話でも、女同士の話でも、同じように、結合が必要になってくるのである。夫婦のあいだでは、こういった会話を楽しむことはまれだ。その理由は、もはや明白すぎる。