2010-11-01から1ヶ月間の記事一覧

ドストエフスキー『二重人格』(小沼文彦 訳)

「世の中にはときどき真理を口にするために、あまりにも一般的な意見というものを持たなすぎる人たちがいるもんですよ」

モーム『月と六ペンス』(中野好夫 訳)

(人間というものは、感情の昴(たか)まったときには、当然、小説のような言い方をするのではなかろうか)。

バルザック『従妹ベット』(平岡篤頼 訳)

「ああ! お前は一度だってあんな目つきでわしを見てくれたことがない、たった一度だって!」

三島由紀夫『愛の渇き』

偏見でない道徳などというものがあるだろうか?

三島由紀夫『美徳のよろめき』

人間の欲望などというものはケチなものだよ。あなたは本当のところ、もう欲望からは治ってしまっている筈だ。私は青年時代のいちばんはじめにそれから治って、あとの一生はただ習慣からだけ逃げて暮した。そして人間のやってのける偉業などというものに、み…

安部公房『カンガルー・ノート』

もうぼくのことなんか忘れてしまったみたいだ。胸がうずいた。そうなんだ、他人の記憶の中で生きるのだって、けっこう骨が折れることなんだ。

武者小路実篤『若き日の思い出』

「死ぬとも思わないが、生きられるとも思わないよ」

室生犀星『杏っ子』

「自分で気持のすさみが判る程度なら、まだまだ初歩だね。」 「にくらしいことを仰有(おっしゃ)るわね。」 「君の貧乏くらいはみんながしているよ、金はかさないから安心したまえ。」

森茉莉「日曜日には僕は行かない」

「心臓に手をあてちゃ駄目だ。動悸がいつまでも直らないよ」

丸山静『熊野考』

熊野とは、たえず新しい空間をひらく神である。私たちが、おのがじしの因縁に縛られ、閉された空間のなかで、いよいよ動きがとれなくなるとき、空間とはもともと閉されたものでなく、開かれたものであることを、悟らせて下さるのが熊野の神というものである…

丸山静『熊野考』

《熊野》とは何か? それは、私がなにかあることを考えているとき、ヒョイとはいりこんできて、私の思考をかきみだし、果ては私の思考そのものと重なりあってしまう、そういうなにものかである。

稲垣足穂『少年愛の美学』

笑いは、確かに凝固を解きほごす作用を持っているが、他面は一種の慣れ合いである。つまり怖いからでないのか? 恐怖すべき或物を眼前にして、これが格別に崇高とか厳粛とかの印象を与えなかった場合に、われわれは笑という誤魔かしの手によって、当のものと…

宇野千代『色ざんげ』

死ぬなどということは生きて行けないから死ぬというよりも、死ぬことが自然な気持であるような場合にふらふらとそうなるのに違いない。

三浦哲郎「團欒」

唐突に、 『よい生活を。』 とわたしは心に念じました。 それは、これまでにもう幾度も幾十度もくりかえしてきた願いなのですが、わたしには常にあたらしい願いなのです。

中山義秀「高野詣」

人の賢さは、たかが知れている。躓いてみなければ、解らない。

福永武彦『海市』

「あたしは不意に幸福になったり、不意に不幸になったりするんです。変ね。」

福永武彦『海市』

別れる前に独り言のように彼女の呟いた言葉が、いつまでも私の耳に残っていた。 「あたし来ない決心をしていたのに、どうして来てしまったのだろう。」 まるで来てしまったために、すべてが駄目になったとでもいうように。