2011-10-22から1日間の記事一覧

山田風太郎『戦中派虫けら日記』

つまりわれわれは、ただこの世に生まれ、ただ生き、そしてただ死んでゆくだけなのではないか。

山田風太郎『戦中派虫けら日記』

鏡花は指が六本ある美女のような気がする。

山田風太郎『戦中派虫けら日記』

しかし、真の愛はつねに盲目の愛ではあるまいか。少なくとも自分の飢えていたのはそんな愛であった。奮発心を起させるために万金の金を見せつつ与えない人よりも、ただ涙をそそいでくれる人の愛であった。

山田風太郎『戦中派虫けら日記』

自分は、だれも自分を理解しないからさびしいと思った。が、だれもが自分を理解したらいっそうさびしくなるかも知れない。

山田風太郎『戦中派虫けら日記』

もし自分の前に出て、おのれにやさしき両親のあることを誇る人間があるなら、自分はこれを笑う。 どんなにやさしい両親も、それは彼の両親であって、自分の両親ではない。それなら、街頭に喧騒している無数の人間どもは、たいてい人の子の親である。人の子の…

山田風太郎『戦中派虫けら日記』

大都会の空は大きく、風は冷やかである。天涯孤独の自分、しかもいかに泣言をならべてみても、絶対それは無益なことを骨身に徹して知っている自分。――その自分を眺めるとき、笑いはもとより湧かぬ。涙ももとより湧かぬ。ただ――沈黙するばかりである。

山田風太郎『戦中派虫けら日記』

自分は心に考えていることを文章に書くと、急に第三者の眼で自分を眺めるから、それが噓になる。他人が読まぬとわかっているものでも、自分に対して嘘をつく。未来の自分が読むときの心を思って噓をつく。何にもならないことだ。

山田風太郎『戦中派虫けら日記』

実際、母のいないほど致命的な不幸はない。どんなに悶え、どんなに苦しみ、どんなに寂しがっても、なぐさめてくれるのは母一人で、それ以外はどんなに絶叫して訴えても、しょせんはアカの他人である。この不幸は凄惨なほどである。