2013-12-18から1日間の記事一覧

大岡昇平『武蔵野夫人』

その夜から秋山には新しい意志が目覚めた。これはもう以前のいつも嫉妬してゐる男ではなかつた。このいやな感情を払ひ落すためにも、行動しなければならぬと彼は思つた。彼の師スタンダールは意志と行動を説いてゐるではないか――しかしかういふ亜流の熱狂が…

『平家物語』巻三

山の方(かた)のおぼつかなさに、はるかに分け入り、嶺(みね)に攀(よ)ぢ、谷に下れども、白雲跡を埋(うづ)んで、往来(ゆきき)の道もさだかならず。晴嵐(せいらん)夢を破つては、その面影も見えざりけり。山にてはつひに尋ねも逢はず。海の辺(ほとり)について…

井伏鱒二『本日休診』

最近、場所がらのせゐか、若い男が刺青を抜いてくれと云つて来るやうになつたので、ごく簡単な刺青なら剥ぎとる手術を施してゐる。なかには若い女も、刺青を取つてくれと云つて来ることもある。たいてい男の場合は、桃とか錨とか女の名前や頭文字など上膊部…

田中小実昌『自動巻時計の一日』

顔と手がぬれたまま、風呂場をでる。そして、ほとんど毎朝、タオルをさがす。うちの風呂場には、たいてい、タオルはない。あっても、ぬれている。風呂場から出たところの板の間に、足ふきのぞうきんが、二、三枚おいてあり、めんどくさいときは、それで顔を…

山本周五郎『青べか物語』

「おうよ」と他の水夫が云った、「名めえをはっきり云ったなあ、ゆんべが初めてだっけ。ずっとめえから何遍も好きだあ好きだってねごとう云ってたっけだ」 「お、か、ね、さん」と先の水夫が両手で自分の肩を抱きしめ、身もだえしながら作り声で云った。「お…

井上ひさし『四十一番の少年』

孝が利雄の腕を枕にして、 「いんちき」 と口を尖らせたような口調になった。利雄はしつっこく続けた。 「きょうだい」 孝の返事はもうなかった。返事のかわりに、利雄の腕の上で孝の頭が重くなった。

落語『らくだ』円生

「だからよう、くどいことは言わねえから、もう一杯だけつきあいねえ、な? で、きゅっと引(し)っかけて、〔……〕商(あきね)えに行きねえ、そうしねえ。え? もう一杯だけ飲みねえ……だめか? おう、飲めねえのか、おう」 「ほんとうにもう、二杯いただいてる…

落語『らくだ』円生

「ええ、どちらか、お出かけになりましたんで? らくださんは……」 「出かけやしねえや、ここにいるよ」 「……はあ、寝てらっしゃるんですな」 「ふん……違(ちげ)えねえ、よく寝てえらあ、もう生涯(しょうげえ)起きやしねえ」 「……ど、どうしたんで」 「くたば…

紀貫之

夢路にも 露やおくらむ よもすがら かよへえる袖の ひぢてかはかぬ

藤原ただふさ

いつわりの 涙なりせば 唐衣 しのびに袖は しぼらざらまし

大江千里

ねになきて ひぢにしかども 春さめに ぬれにし袖と とはばこたへむ