チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(神西清 訳)
ワーニャ もしもあなたが、自分の顔や、自分の立ち居振舞いを、われとわが目で見られたらなあ。……あなたは生きているのが、じつに大儀そうですよ! じつになんとも、大儀そうですよ!
チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(神西清 訳)
アーストロフ しかしね、僕のおかげで、伐採の憂目をまぬかれた、百姓たちの森のそばを通りかかったり、自分の手で植えつけた若木の林が、ざわざわ鳴るのを聞いたりすると、僕もようやく、風土というものが多少とも、おれの力で左右できるのだということに、思い当るのだ。そして、もし千年ののち人間が仕合せになれるものとすれば、僕の力も幾分はそこらに働いているわけなのだと、そんな気がしてくるのだ。
チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(神西清 訳)
エレーナ いいお天気だこと、きょうは。……暑くもなし。……
間
ワーニャ こんな天気に首をくくったら、さぞいいだろうなあ。……
チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(神西清 訳)
ワーニャ ええ、そうですとも! 僕は明るい人間でしたが、そのくせ誰一人として、明るくしてはやれなかった。……(間)この僕が明るい人間だった。……これほど毒っ気の強い皮肉は、ほかにちょっとないな。僕もこれで四十七です。去年までは僕もあなたと同じように、あなたのその屁理屈でもって、わざと自分の目をふさいで、この世の現実を見まい見まいとしていたものです、――そして、それでいいのだと思っていました。ところが今じゃ、一体どんなざまになっているとお思いです! 僕は、腹が立って、いまいましくって、夜もおちおち眠れやしない。望みのものがなんでも手にはいったはずの若い時を、ぼやぼや無駄にすごしてしまって、この年なった今じゃ、もう何ひとつ手に入れることができないんですからねえ!
ソーニャ ワーニャ伯父さん、面白くないわ、そんなお話!
ヴォイニーツカヤ夫人 (息子に)お前は自分の昔もっていた信念を、なんだか怨みに思っておいでのようだね。……けれど、悪いのは信念ではありません、お前自身なのだよ。信念そのものはなんでもない、ただの死んだ文字だということを、お前は忘れていたのです。……仕事をしなければならなかったのですよ。
チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(神西清 訳)
テレーギン まあ、お聞きよ、ワーニャ。わたしの女房は、このわたしの男っぷりに愛想をつかして、婚礼のあくる日、好きな男と駆落ちしてしまった。けれどわたしは、その後(ご)も自分の本分に、そむいたことはないよ。今になるまでわたしは、あれが好きだし、実をつくしてもいるし、できるだけは援助もしてやっている。あれと好きな男のあいだにできた娘の養育費に、わたしは財産を投げ出してしまったんだよ。そのため、わたしは不仕合せにゃなったが、気位だけは、ちゃんとなくさずにいる。ところが、あの女はどうだ。若さとも、おさらばだ。人間のご多分にもれず、器量も落ちてしまう。好きな男には、死なれてしまう。……いったい何が残ったろうね。
チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(神西清 訳)
アーストロフ まだ当分、ここにいるつもりなのかね。
ワーニャ (ヒューと口笛を吹いて)百年ぐらいね。やっこさん、ここに居坐る肚(はら)なのさ。
チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(神西清 訳)
アーストロフ ……そこで私は坐りこんで、こう目をつぶって――こんなことを考えたよ。百年、二百年あとから、この世に生れてくる人たちは、今こうして、せっせと開拓者の仕事をしているわれわれのことを、ありがたいと思ってくれるだろうか、とね。ねえ、ばあやさん。そんなこと、思っちゃくれまいねえ。
マリーナ たとえ人間は忘れても、神さまは覚えていてくださいますよ。
アーストロフ ああそうか、ありがとうよ。いいことを言ってくれたね。
カフカ『アメリカ』(中井正文 訳)
「ええ、世の中には、まだまだ誠実さがころがってるもんですよ」
カフカ『城』(前田敬作 訳)
「人生は苦いものですから、自分の手で甘くしなくてはなりません」
カフカ『城』(前田敬作 訳)
「もっとも、この世には、大きすぎて使いものにならない機会があるものです。それ自身があまりにりっぱすぎるためにだめになってしまうような事柄があるものです。まったく、おどろくべきことですな」
チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)
ニーナ わたしの歩いた地面に接吻したなんて、なぜあんなことをおっしゃるの? わたしなんか、殺されても文句はないのに。(テーブルにかがみこむ)すっかり、へとへとだわ! 一息つきたいわ、一息! (首をあげて)わたしは――かもめ。……いいえ、そうじゃない。わたしは――女優。そ、そうよ! (アルカージナとトリゴーリンの笑い声を聞きつけて、じっと耳をすまし、それから左手のドアへ走り寄って、鍵穴からのぞく)あの人も来ている……(トレープレフのそばへ戻りながら)ふん、そう。……かまやしない。……そうよ。あの人は芝居というものを信用しないで、いつもわたしの夢を嘲笑してばかりいた。それでわたしも、だんだん信念が失せて、気落ちがしてしまったの。……そのうえ、恋の苦労だの、嫉妬だの、赤ちゃんのことでしょっちゅうびくびくしたりで……わたしはこせついた、つまらない女になってしまって、でたらめな演技をしていたの。両手のもて扱い方も知らず、舞台で立っていることもできず、声も思うようにならなかった。ひどい演技をやってるなと自分で感じるときの心もち、とてもあなたにはわからないわ。わたしは――かもめ。いいえ、そうじゃない……。おぼえてらして、あなたは鷗を射落したわね? ふとやって来た男が、その娘を見て、退屈まぎれに、破滅させてしまった。……ちょっとした短編の題材……。これでもないわ。……(額をこする)何を話してたんだっけ?……そう、舞台のことだったわ。今じゃもうわたし、そんなふうじゃないの。……わたしはもう本物の女優なの。……わたしは楽しく、喜び勇んで役を演じて、舞台に出ると酔ったみたいになって、自分はすばらしいと感じるの。今、こうしてここにいるあいだ、わたしはしょっちゅう歩き回って、歩きながら考えるの。考えながら、わたしの精神力が日ましに伸びてゆくのを感じるの。……今じゃ、コースチャ、舞台に立つにしろ物を書くにしろ同じこと。わたしたちの仕事で大事なものは、名声とか光栄とか、わたしが空想していたものではなくって、じつは忍耐力だということが、わたしにはわかったの、得心が行ったの。おのれの十字架を負うすべを知り、ただ信ぜよ――だわ。わたしは信じているから、そう辛いこともないし、自分の使命を思うと、人生もこわくないわ。
トレープレフ (悲しそうに)君は自分の道を発見して、ちゃんと行く先を知っている。だが僕は相変らず、妄想と幻影の混沌のなかをふらついて、一体それが誰に、なんのために必要なのかわからずにいる。僕は信念がもてず、何が自分の使命かということも、知らずにいるのだ。
チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)
ニーナ むごいものだわ、生活って。