チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

ソーリン わしはコースチャに、ひとつ小説の題材をやりたいよ。題は、こうつけるんだな――『なりたかった男』。つまり『ロンム・キ・ア・ヴーリュ』さ。若いころ、わたしは文学者になりたかった――が、なれなかった。弁舌さわやかになりたかった――が、わたしの話しぶりきたら、いやはやひどいものだった。(自嘲的に)「とまあいった次第で、つまりそのありまして、そのう、ええと……」といったざまでな、なんとか締めくくりをつけよう、つけようとして、大汗かいたものさ。家庭も持ちたかった――が、持てなかった。いつも都会で暮したかった――が、それこうして、田舎で生涯を終ろうとしている、とまあいった次第でな。
ドールン 四等官になりたかった――それは、なれた。
ソーリン (笑う)それは別に望んだわけじゃないが、ひとりでにそうなった。
ドールン 六十二にもなって人生に文句をつけるなんて、失礼ながら、――褒めた話じゃないですよ。
ソーリン なんという、わからず屋だ。生きたいと言っているのに!
ドールン それは浅はかというものです。自然律によって、一切の生は終りなからざるべからずですからね。
ソーリン それ、それが、腹いっぱい食った人の理屈さ。君はおなかがくちいものだから、人生に冷淡で、どうなろうと平気なんだ。だが、いざ死ぬときにゃ、君だって怖くなろうさ。
ドールン 死の恐怖は――動物的恐怖ですよ。……それを抑えなければね。死を意識的に怖れるのは、永遠の生命を信じる人だけです。自分の罪ぶかさが怖くなるのです。

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

マーシャ みんな、ばかげたことよ。望みなき恋なんて、小説にあるだけだわ。くだらない。ただ、よせばいいのよ――甘ったれた気持になって、待てば海路の日和だかなんだか、ぽかんと何かを待っている、そんな態度をね。……心に恋が芽を出したら、摘んで捨てるまでのことよ。

谷川俊太郎「殺意」

殺されたのがケネディだったから
北京の子どもたちは拍手した
殺されたのが毛沢東だったら
彼等は拍手しなかったろう


私にも怒りがある
憎しみがある嫉妬がある傲慢がある
私にも殺意がある
予期できぬ殺意が


暗殺とは一人が一人を殺すこと
戦争とは万人が万人を殺すこと
死刑とは万人が一人を殺すこと
未来とは一人が万人を殺すこと

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

トリゴーリン その気になりさえすりゃ、非凡な女になれるんだ。幻の世界へ連れていってくれるような、若々しい、うっとりさせる、詩的な愛――この世でただそれだけが、幸福を与えてくれるのだ! そんな愛を、僕はまだ味わったことがない。……若いころは、雑誌社へお百度をふんだり、貧乏と闘ったりで、そんなひまがなかった。今やっとそれが、その愛が、ついにやってきて、手招きしているんだ。……それを避けなければならん理由が、どこにある?

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

トリゴーリン 時どき人間は、歩きながら眠ることがある。まさにそのとおりこの僕も、こうして君と話をしていながら、じつはうとうとして、あの子の夢を見ているようなものだ。……なんともいえない甘い夢想の、とりこになってしまったんだ。……行かせておくれ。

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

トレープレフ ところが僕は尊敬していない。お母さんは、僕にまであの男を天才だと思わせたいんでしょうが、僕は嘘がつけないもんで失礼――あいつの作品にゃ虫唾が走りますよ。
アルカージナ それが妬みというものよ。才能のないくせに野心ばかりある人にゃ、ほんものの天才をこきおろすほかに道はないからね。結構なお慰みですよ!

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

アルカージナ (間をおいて)じゃ、ここでお暮しなさいね、退屈がらずに、お風邪を召さずにね。あの子の監督をおねがいしますよ。よく気をつけてやってね。導いてやってね。(間)こうしてわたしが発ってゆけば、なぜコンスタンチンがピストル自殺をしようとしたのか、それも知らずじまいになるのね。どうやらわたしには、おもな原因は嫉妬だったような気がする。だから一刻も早くトリゴーリンを、ここから連れ出したほうがいいのよ。
ソーリン さあ、なんと言ったものかな? ほかにも原因はあったろうさ。論より証拠――若盛りの頭のある男が、草ぶかい田舎ぐらしをしていて、金もなければ地位もなく、未来の望みもないときてるんだからな。なんにもすることがない。そのぶらぶら暮しが、恥ずかしくもあり空怖ろしくもあるんだな。

谷川俊太郎「因果」

結果はたったひとつだが
原因の数はゴマンとあるよ
小さすぎて目にもとまらぬ原因から
大きすぎて目にはいらない原因まで
原因は人間とともに繁殖し
原因はレールとともにどこまでも続き
原因はボタ山のように積みかさなり
原因は廃坑のように忘れられ
或る日突然(のように)崩れおちる!
だが偶然ではない
必然なのだ
ゆっくりと時間をかけた必然なのだ
因果なことに

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

トリゴーリン だがまあ、しばらくお話しましょうか。そのわたしの、すばらしい、明るい生活のことをね。……さてと、何から始めたものか? (やや考えて)強迫観念というものがありますね。人がたとえば月なら月のことを、夜も昼ものべつ考えていると、それになるのだが、わたしにもそんな月があるんです。夜も昼も、一つの考えが、しつこく私にとっついて離れない。それは、書かなくちゃならん、書かなくちゃ、書かなくちゃ……というやつです。やっと小説を一つ書きあげたかと思うと、なぜか知らんがすぐもう次のに掛からなければならん、それから三つ目、三つ目のお次は四つ目……といった具合。まるで駅逓(えきてい)馬車みたいに、のべつ書きどおしで、ほかに打つ手がない。そのどこがすばらしいか、明るいか、ひとつ伺いたいものだ。いやはや、野蛮きわまる生活ですよ! 今こうしてあなたとお喋りをして、興奮している。ところがその一方、書きかけの小説が向うで待っていることを、一瞬たりとも忘れずにいるんです。ほらあすこに、グランド・ピアノみたいな恰好の雲が見える。すると、こいつは一つ小説のどこかで使ってやらなくちゃ、と考える。グランド・ピアノのような雲がうかんでいた、とね。ヘリオトロープの匂いがする。また大急ぎで頭(ここ)へ書きこむ。甘ったるい匂い、後家さんの色、こいつは夏の夕方の描写に使おう、とね。こうして話をしていても、自分やあなたの一言一句を片っぱしから捕まえて、いそいで自分の手文庫のなかへほうりこむ。こりゃ使えるかもしれんぞ! というわけ。一仕事すますと、芝居なり釣りなりに逃げだす。そこでほっと一息ついて、忘我の境にひたれるかと思うと、どっこい、そうは行かない。頭のなかには、すでに新しい題材という重たい鉄のタマがころげ回って、早く机へもどれと呼んでいる。そこでまたぞろ、大急ぎで書きまくることになる。いつも、しょっちゅうこんなふうで、われとわが身に責め立てられて、心のやすまるひまもない。自分の命を、ぼりぼり食っているような気持です。何者か漠然とした相手に蜜を与えようとして、僕は自分の選(え)り抜きの花から花粉をかき集めたり、かんじんの花を引きむしったり、その根を踏み荒したりしているみたいなものです。それで正気と言えるだろうか? 身近な連中や知り合いが、果してわたしをまともに扱ってくれてるだろうか? 「いま何を書いておいでです? こんどはどんなものです?」聞くことと言ったら同じことばかり。それでわたしは、知り合いのそんな注目や、讃辞や、随喜の涙が、みんな嘘っぱちで、寄ってたかってわたしを病人あつかいにして、いい加減な気休めを言っているみたいな気がする。うかうかしてると、誰かうしろから忍び寄って来て、わたしをとっつかまえ、あのポプリーシチンみたいに、気違い病院へぶちこむんじゃないかと、こわくなることもある。それじゃ、わたしがやっと物を書きだしたころ、まだ若くて、生気にあふれていた時代はどうかというと、これまたわたしの文筆生活は、ただもう苦しみの連続でしたよ。駆けだしの文士というものは、殊に不遇な時代がそうですが、われながら間の抜けた、不細工な余計者みたいな気のするものでしてね、神経ばかりやたらに尖らせて、ただもう文学や美術にたずさわっている人たちのまわりを、ふらふらうろつき回らずにはいられない。認めてももらえず、誰の目にもはいらず、しかもこっちから相手の眼を、まともにぐいと見る勇気もなく――まあ言ってみれば、一文なしのバクチきちがいといったざまです。わたしは自分の読者に会ったことはなかったけれど、なぜかわたしの想像では、不愛想な疑ぐりぶかい人種のように思えましたね。わたしは世間というものが恐かった。ものすごい怪物のような気がした。自分の新作物が上演されるようなことになると、いつもきまって、黒い髪の毛の人は敵意を抱いている、明るい髪の毛の人は冷淡な無関心派だと、そんな気がしたものです。思いだしてもぞっとする! じつになんとも言えない苦しみでした!
ニーナ ちょっとお待ちになって。でも、感興が湧いてきた時や、創作の筆がすすんでいる時は、崇高な幸福の瞬間をお味わいになりません?
トリゴーリン それはそうです。書いているうちは愉快です。校正をするのも愉快だな。だが……いざ刷りあがってしまうと、もう我慢がならない。こいつは見当が狂った、しくじった、いっそ書かないほうがよかったのだと、むしゃくしゃして、気が滅入るんですよ。……(笑う)ところが、世間は読んでくれて、「なるほど、うまい、才筆だな」とか、「うまいが、トルストイには及びもつかんね」とか、「よく書けてる、しかしツルゲーネフの『父と子』のほうが上だよ」とか、仰せになる。といったわけで、結局、墓にはいるまでは、明けても暮れても「うまい、才筆だ」「うまい、才筆だ」の一点ばりで、ほかに何にもありゃしない。さて死んでしまうと、知り合いの連中が墓のそばを通りかかって、こう言うでしょうよ。「ここにトリゴーリンが眠っている。いい作家だったが、ツルゲーネフには敵わなかったね」
ニーナ でもちょっと。わたし、そんなお話は頂きかねますわ。あなたは、成功に甘えてらっしゃるんだわ。
トリゴーリン どんな成功にね? わたしはついぞ、自分でいいと思ったことはありませんよ。わたしは作家としての自分が好きじゃない。何よりも悪いことに、わたしは頭がもやもやしていて、自分で何を書いているのかわからないんです。……わたしはほら、この水が好きだ。木立や空が好きだ。わたしは自然をしみじみ感じる。それはわたしの情熱を、書かずにいられない欲望をよび起す。ところがわたしは、単なる風景画家だけじゃなくて、その上に社会人でもあるわけだ。わたしは祖国を、民衆を愛する。わたしは、もし自分が作家であるならば、民衆や、その苦悩や、その将来について語り、科学や、人間の権利や、その他いろんなことについても語る義務がある、と感じるわけです。そこでわたしは、何もかも喋ろうとあせる。わたしは四方八方から駆り立てられ、叱りとばされ、まるで猟犬に追いつめられた狐さながら、あっちへすっ飛び、こっちへすっ飛びしているうちに、みるみる人生や科学は前へ前へと進んで行ってしまい、わたしは汽車に乗りおくれた百姓みたいに、ずんずんあとに残される。で、とどのつまりは、自分にできるのは、自然描写だけだ、ほかのことにかけては一切じぶんはニセ物だ、骨の髄までニセ物だ、と思っちまうんですよ。

谷川俊太郎「千羽鶴」

感傷の糸につながれて
鳴かず
飛ばず
ただそよかぜにゆれて――
あまりにはかない祈りのかたち
千人針を縫った手が
性こりもなく千羽鶴を折る
ああもどかしい日本!
千羽は無力万羽も億羽も無力
あの巨大な悪の不死鳥と戦うには
もう折るな不妊の鶴は
祈るだけでは足りない
誓うだけでは足りない

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

トリゴーリン わたしは、ごくたまにしか若いお嬢さん――若くてしかもきれいなお嬢さんに、会う機会がないもので、十八、九の年ごろには一体どんな気持でいるものか、とんと忘れてしまって、どうもはっきり頭に浮ばんのです。だから、わたしの作品に出てくる若い娘たちは、大抵作りものですよ。わたしはせめて一時間でもいいから、あなたと入れ代りになって、あなたの物の考え方や、全体あなたがどういう人かを、とっくり知りたいと思いますよ。
ニーナ わたしは、ちょいちょいあなたと入れ代りになってみたいわ。
トリゴーリン なぜね?
ニーナ 有名な、りっぱな作家が、どんな気持でいるものか、知りたいからですわ。有名って、どんな気がするものかしら? ご自身が有名だということを、どうお感じになりまして?
トリゴーリン どうって? まあ別になんともないでしょうね。そんなこと、ついぞ考えたこともありませんよ。(ちょっと考えて)二つのうち、どっちかですな――わたしの名声をあなたが大げさに考えているか、それとも、名声というものがおよそ実感としてピンとこないかね。
ニーナ でも、自分のことが新聞に出ているのをご覧になったら?
トリゴーリン 褒められればいい気持だし、やっつけられると、それから二日は不機嫌を感じますね。
ニーナ すばらしい世界だわ! どんなにわたし羨ましいか、それがわかってくだすったらねえ! 人の運命って、さまざまなのね。退屈な、人目につかない一生を、やっとこさ曳きずっている、みんな似たりよったりの、不仕合せな人たちがいるかと思うと、一方にはあなたのように、――百万人に一人の、面白い、明るい、意義にみちた生活を送るめぐり合せの人もある。あなたはお仕合せですわ。……
トリゴーリン わたしがね? (肩をすくめて)ふむ。……あなたは、名声だの幸福だの、何かこう明るい面白い生活だのと仰しゃるが、わたしにとっては、そんなありがたそうな言葉はみんな、失礼ながら、わたしが食わず嫌いで通しているマーマレードと同じですよ。あなたはとても若くて、とても善良だ。

谷川俊太郎「子どもは……」

子どもはなおもひとつの希望
このような屈託の時代にあっても


子どもはなおもひとつの喜び
あらゆる恐怖のただなかにさえ


子どもはなおもひとりの天使
いかなる神をも信ぜぬままに


子どもはなおも私たちの理由
生きる理由死を賭す理由


子どもはなおもひとりの子ども
石の腕の中ですら

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

トレープレフ (無帽で登場。猟銃と、鷗の死骸を持つ)一人っきりなの?
ニーナ ええ、そう。


    トレープレフ、鷗を彼女の足もとに置く。


ニーナ どういうこと、これ?
トレープレフ 今日ぼくは、この鷗を殺すような下劣な真似をした。あなたの足もとに捧げます。
ニーナ どうかなすったの? (鷗を持ちあげて、じっと見つめる)
トレープレフ (間をおいて)おっつけ僕も、こんなふうに僕自身を殺すんです。
ニーナ すっかり人が違ったみたい。
トレープレフ ええ、あなたが別人みたいになって以来。あなたの態度は、がらり変ってしまいましたね。目つきまで冷たくなって、僕がいるとさも窮屈そうだ。
ニーナ 近ごろあなたは怒りっぽくなって、何か言うにもはっきりしない、へんな象徴みたいなものを使うのね。現にこの鷗にしたって、どうやら何かの象徴らしいけれど、ご免なさい、わたしわからないの。……(鷗をベンチの上に置く)わたし単純すぎるもんだから、あなたの考えがわからないの。