2015-02-01から1ヶ月間の記事一覧

堀口大学「母の声」

母よ、 僕は尋ねる、 耳の奥に残るあなたの声を、 あなたが世に在られた最後の日、 幼い僕を呼ばれたであらうその最後の声を。 三半規管よ、 耳の奥に住む巻貝よ、 母のいまはの、その声を返せ。

長塚節「土」一五

巫女(くちよせ)は暫く手を合せて口の中で何か念じて居たが風呂敷包の儘箱へ両肘を突いて段々に諸国の神々の名を喚んで、一座に聚めるといふ意味を熟練したいひ方で調子をとつていつた。がや/\と騒いで居た家の内外は共にひつそりと成つた。「行々子(よしき…

水原秋桜子

高嶺星(たかねぼし)蚕飼(こがひ)の村は寝しづまり

島木赤彦

みづうみの氷は解けてなほ寒し三日月の影波にうつろふ

村野四郎「高障害」

花もなく 匂いもない季節 運動シャツの処女性は 白いリンネルに過ぎなかった 彼女は身軽にハードルを超えた そして考えた かくも容易(たやす)く 超すことが出来ると

近松秋江「別れたる妻に送る手紙」

拝啓 お前――分れて了つたから、もう私がお前と呼び掛ける権利は無い。それのみならず、風の音信(たより)に聞けば、お前はもう疾(とつく)に嫁づいてゐるらしくもある。もしさうだとすれば、お前はもう取返しの附かぬ人の妻だ。その人にこんな手紙を上げるのは…

竹下しづの女

短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまおか)

三ヶ島葭子

つつしみを知らぬやからと怒りつつおのが妬をひそかにおそるる

立原道造「さびしき野辺」

いま だれかが 私に 花の名を ささやいて行つた 私の耳に 風が それを告げた 追憶の日のやうに いま だれかが しづかに 身をおこす 私のそばに もつれ飛ぶ ちひさい蝶らに 手をさしのべるやうに

鈴木三重吉「小鳥の巣」

十吉はとうと学校を休学して、十月十幾日といふ日の夜、自分の都市へ帰つて来たのであつた。 十吉は、長らく続いて困つて来た神経衰弱が、最早どんなにして見ても、死にでもするより外には堪え切れなくなつた。 最早何の抵抗の力も尽きたのである。久しい間…

杉田久女

谺して山ほととぎすほしいまゝ

石原純

電子うごく世界のさまを想ひをれば、 黄なる書物が 我が眼に触れぬ。

伊東静雄「私は強ひられる――」

私は強ひられる この目が見る野や 雲や林間に 昔の私の恋人を歩ますることを そして死んだ父よ 空中の何処で 噴き上げられる泉の水は 区別された一滴になるのか 私と一緒に眺めよ 孤高な思索を私に伝へた人! 草食動物がするかの楽しさうな食事を

島崎藤村「家」

橋本の家の台所では昼飯の支度に忙しかつた。平素ですら男の奉公人だけでも、大番頭から小僧まで入れて、都合六人のものが口を預けて居る。そこへ東京からの客がある。家族を合せると、十三人の食ふ物は作らねばならぬ。三度々々斯の支度をするのは、主婦の…