2012-04-01から1ヶ月間の記事一覧

井原西鶴『日本永代蔵』

用心し給へ、国に賊(ぬすびと)、家に鼠、後家に入聟(いりむこ)いそぐましき事なり。

長谷川時雨『旧聞日本橋』

夏の下町の風情は大川から、夕風が上潮(あげしお)と一緒に押上げてくる。洗髪、素足、盆提灯、涼台、桜湯――お邸方や大店(おおだな)の歴々には味えない町つづきの、星空の下での懇親会だ。湯屋より、もちっとのびのびした自由の天地だ。

正岡子規『俳諧大要』

写実的自然は俳句の大部分にして、即ち俳句の生命なり。この趣味を解せずして俳句に入らんとするは、水を汲まずして月を取らんとするに同じ。

国木田独歩『武蔵野』

武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向く方へゆけば必ずそこに見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある。

夏目漱石『硝子戸の中』

今の私はばかで人にだまされるか、あるいは疑い深くて人を容れる事ができないか、この両方だけしかないような気がする。不安で、不透明で、不愉快に満ちている。もしそれが生涯つづくとするならば、人間とはどんなに不幸なものだろう。

夏目漱石『草枕』

世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうしい、いやなやつで埋(うず)まっている。元来何しに世の中へ面(つら)をさらしているんだか、解しかねるやつさえいる。しかもそんな面に限って大きいものだ。

菅原孝標女『更級日記』

はしるはしる、わづかに見つゝ、心も得ず心もとなく思ふ源氏を、一の巻よりして、人もまじらず、几帳の内にうち臥してひき出でつゝ見る心地、后の位も何にかはせむ。

石川淳『森鷗外』

どんな事件に鼻をぶつけても、いつも泰然と「別に驚きやしねえ」と一つ覚えのせりふを悪用してあぐらをかいているのは、すでに思想という鯨の腹に呑みこまれたことに気がつかない鰯に似ている。

長塚節『土』

春は空からそうして土からかすかに動く。

正岡子規『墨汁一滴』

美しき花もその名を知らずして文にも書きがたきはいと口惜し。

鈴木牧之『北越雪譜』

暖地の人(ひと)花の散(ちる)に比(くらべ)て美賞する雪吹(ふゞき)と其(その)異(ことなる)こと、潮干(しほひ)に遊びて楽(たのしむ)と洪濤(つなみ)に溺て苦(くるしむ)との如し。雪国の難儀暖地の人おもひはかるべし。

兼好法師『徒然草』

己(おの)が分を知りて、及ばざる時は速かに止むを、智といふべし。許さざらんは、人の誤りなり。分を知らずして強ひて励むは、己れが誤りなり。

寺山修司『浪漫時代 寺山修司対談集』

一つは、西欧的な父親と子という図式はダイアローグのいちばん原理的な形なんですね。父親を発見するということは他者を発見するということ。ところが母と子という図式はどちらかというとモノローグであると。どこまでいってもダイアローグに高まっていかな…

寺山修司『浪漫時代 寺山修司対談集』

人は、一つの形式を通して表現する方法を獲得した瞬間から、自分自身を模倣するという習性が身についちゃうからね。

寺山修司『浪漫時代 寺山修司対談集』

ぼくはどんな偉大な作家も半分しか書くことはできないという考えかたなんです。あとの半分は読者が作るのでね。読者に想像力がなかった場合つまらない小説にしかならない。

寺山修司『死者の書』

えらぶ、ということは「えらばなかったものを捨てる」ということであるから、そこでは、早くも「差別」がはじまっているのである。

寺山修司『死者の書』

「平等」という言葉は、政治のレベルで用いられ、「好ききらい」という言葉は性の領域で用いられる。この二つの言葉は、実はべつべつの座標軸を持って社会化されているように思われる。人は、誰でもユートピアをイメージするときに、そこには非階級的で平等…

寺山修司『死者の書』

いま、殺人が容認されているのは、国家という単位だけなんです。国家は死刑という名の虐殺もできるし、戦争という名の大量殺人もできる。