2012-03-01から1ヶ月間の記事一覧

寺山修司『対論 四角いジャングル』

寺山 神の問題、絶対者の問題というのを受け取り手の精神の問題だけで語ってきた日本の浪曼派的な一種の精神主義的な志向のほかに、権力というものの問題がある。神というのは権力だからね。

寺山修司『対論 四角いジャングル』

寺山 「体制」という言葉を、ただ国家権力だけと考えると危険なんで、シャツの着方とか、百メートルを何秒で走れるとか、生活のさまざまの秩序もまた体制ではないか。

寺山修司「星の王子さま」

じぶんのことを、あんまり大げさに考えるのはお止し。

寺山修司「血は立ったまま眠っている」

卑怯者ってのはね、良。きみが何をしたか、ってことで決まるんじゃなくて、きみが何を後悔してるかってことで決まるんだよ。

寺山修司「血は立ったまま眠っている」

人は、何かに変ってしまうとき、まったく何の動機もなく、自分にも気がつかないうちに変ってしまうものなのよ。

寺山修司「毛皮のマリー」

歴史はみんなウソ、去ってゆくものはみんなウソ、あした来る鬼だけが、ホント!

寺山修司「毛皮のマリー」

おお、木枯だってすてきじゃないの? あれは木の拍手、風の喝采よ。

寺山修司「アダムとイヴ、私の犯罪学」

大体、不満屋ってのは世の中との折合いが悪いんじゃなくって 自分との折合いが悪い奴のことなんだから。

寺山修司「さらば、映画よ」

どいつもこいつも「代理人」の世の中だ……私もきっと誰かの「代理人」なのではないだろうか? だとすると、 私は一体、誰の代理人なんだろう。

寺山修司「犬神」

幸福というのは いつもおびえながら 人目をしのんで味わわなければ いけないものだろうか? 誰でもそうなのだろうか?

寺山修司『地球をしばらく止めてくれ ぼくはゆっくり映画を観たい』

大体、日本という単位はぼくらには大きすぎるんじゃないかってことをね、この間から考えてるんです。共同体の単位としては広すぎる。同一言語を使うというだけで日本人全部を一つの国民と考えるのは無理なんじゃないか

寺山修司『スポーツ版裏町人生』

真心というやつには、いつでもウサンくさい匂いがつきまとう。美しい人情噺の裏には、必ずドス黒い哄笑が口を開けているものである。

寺山修司『さかさま恋愛講座 青女論』

私は思うのです。一人の同じ人間の一生にあっても「青年」と「老人」、「青女」と「老女」は別人なのだ、と。 人生は、連続しているのではなく断ち切れており、人は一生のうちに「何人かのべつの人間」として生きるのだ、と。

寺山修司『さかさま博物誌 青蛾館』

私たちの身のまわりの人たちの『笑い』や『泣き』もまた、少しずつ複製化されつつあるのではないかと思うのだ。

寺山修司『さかさま博物誌 青蛾館』

あらゆる笑いは、政治化される要素をはらんでいる。 しかも、笑う人間は、いつでも正義の側に立っていると信じている。そのこと位、莫迦げた自信はないのではなかろうか?

寺山修司『さかさま博物誌 青蛾館』

笑いを生みだすのは、いつでも人間そのものではなく人間の条件である。 そして、笑うことによって人は、じぶんの現在地を確認する。われ笑うゆえに、われ在り、という訳である。

寺山修司『さかさま博物誌 青蛾館』

あらゆる笑いは、差別と階級性を内包して生まれる。 そしてまた、あらゆる笑いは笑うことによって『境界線を引く行為』となるのである。

寺山修司『さかさま博物誌 青蛾館』

読むことは、それ自体が増殖をはらんだエロス的な行為なのだから。 たとえば書物とは『印刷物』ばかりを意味するものではなかった。街自体が、開かれた大書物であり、そこには書きこむべき余白が無限に存在していたのだ。 かつて、私は『書を捨てよ町へ出よ…

寺山修司『さかさま博物誌 青蛾館』

つまり、読書は非力な人たちにとっては変身の機会であり、愉悦快楽であり、しばしば武器であり、逃避の場であり、事件であった。

寺山修司『さかさま博物誌 青蛾館』

しかし、『読む』ことによってたちまち、価値は増える。それは、体験を理念に変え、『自分自身であること』を『自分自身であろうとすること』に変えるからである。書物は、それ自体では、欠落だらけの真実を補完し、いつのまにか私たちに幻想によるべつの真…

寺山修司『さかさま博物誌 青蛾館』

すべての表現は、作者だけのものではなく、読者(受け手)との合作だ、ということを言いたいのである。

寺山修司『さかさま博物誌 青蛾館』

(思えば、だれでもラブレターを書いている間だけは、世界的な詩人になっているのである)

寺山修司『さかさま博物誌 青蛾館』

私は、現代人の大半は『他動人間』である、という結論に達したのであった。 すなわち、『自動』ではなく『他動』によって行動する。それは、ゼンマイやねじの仕掛で動く自動人形と同じように、見えない使令や社会的要因によって他動的に『動かされている』の…

寺山修司『さかさま博物誌 青蛾館』

過ぎ去ったことの一切は物語にすぎない、というのが私の哲学であり、本物というのは、『在る』ものではなく、『成る』ものであって当然だからである。

寺山修司『さかさま博物誌 青蛾館』

『人生いたるところに机あり』なのである。 もともと、机という『ものを書くための台』が製造販売されるようになってから文学者は書斎という座敷牢に自己監禁するマゾヒスティックな快楽の虜になり、街のダイナミズムから遠ざかってしまった――というのが私の…

寺山修司『花嫁化鳥』

だが、故郷を持つということは、風景を私有するということに他ならなかった。

寺山修司『花嫁化鳥』

私は遺失物捜索係の前に立って、途方に暮れながら思い出すように、不確実で、遠い存在――としてのみ、「ふるさと」の風景を定義づけることができた。「ふるさと」などは、所詮は家出少年の定期入れの中の一枚の風景写真に過ぎないのさ。と、私は思った。それ…

寺山修司『花嫁化鳥』

私は、ふと思った。少年時代から「ふるさと」の絵というのは、どうしてこんな風に遠景ばかりなのだろう。それは、私が十歩近づけばその分だけ遠ざかり、決して中へ入ることを許さない、遥かな風景なのであった。

寺山修司『花嫁化鳥』

私の考えでは、ヘンシーンするのは仮面をつけたときではない。人はむしろ、仮面をつけたときには安心して本当のことを言える。

寺山修司『競馬への望郷』

大体、ファンというのは馬券の名を借りて〝自分を買う〟のである