2014-11-01から1ヶ月間の記事一覧

南方熊楠「ロンドン書簡」

電気が光を放ち、光が熱を与うるごときは、物ばかりのはたらきなり(物理学的)。今、心がその望欲をもて手をつかい物を動かし、火を焚いて体を煖むるごときより、石を築いて長城となし、木をけずりて大堂を建つるごときは、心界が物界と雑(まじわ)りて初め…

寺田寅彦「破片(七)」

最新の巨大な汽船の客室にはその設備に装飾にあらゆる善美を尽くしたものがあるらしい。外国の絵入り雑誌などによくそれの三色写真などがある。そういう写真をよくよく見ていると、美しいには実に美しいが、何かしら一つ肝心なものが欠けているような気がす…

寺田寅彦「言語と道具」

人間というものがはじめてこの世界に現出したのはいつごろであったかわからないが、進化論にしたがえば、ともかくも猿のような動物からだんだんに変化してきたものであるらしい。しかしその進化のいかなる段階以後を人間と名づけてよいか、これもむつかしい…

井上靖『天平の甍』

二十日の暁方、普照(ふしょう)は夢とも現実ともなく、業行(ぎょうこう)の叫びを耳にして眼覚めた。それは業行の叫びであるというなんの証しもなかったが、いささかの疑いもなく、普照には業行の叫びとして聞えた。波浪は高く船は相変らず木の葉のように揺れ…

源氏鶏太「流氷」

その夜、美奈は、店へ出て、客の相手をした。ぐいぐいと酒を飲んで、別人のように、陽気に騒いだりしていた。お秋さんも、この調子なら、美奈も、憑きものが落ちたように、案外、早く、立直るのではないか、と思っていた。客の切れ目が出来たとき、 「酔い過…

織田作之助「アド・バルーン」

私の文子に対する気持は世間でいふ恋といふものでしたらうか。それとも、単なるあこがれ、ほのかな懐しさ、さういつたものでしたらうか。いや、少年時代の他愛ない気持のせんさくなどどうでもよろしい。が、とにかく、そのことがあつてから、私は奉公を怠け…

岡本かの子「金魚撩乱」

いま、暴風のために古菰(ふるこも)がはぎ去られ差込む朝陽で、彼はまざまざとほとんど幾年ぶりかのその古池の面を見た。その途端、彼の心に何かの感動が起ろうとする前に、彼は池の面にきっと眼を据え、強い息を肺いっぱいに吸い込んだ。……見よ池は青みどろ…

谷崎潤一郎『春琴抄』

程経て春琴が起き出でた頃手さぐりしながら奥の間に行きお師匠様私はめしひになりました。もう一生涯お顔を見ることはござりませぬと彼女の前に額づいて云つた。佐助、それはほうんたうか、と春琴は一語を発し長い間黙然と沈思してゐた佐助は此の世に生れて…

永井荷風『すみだ川』

残暑の夕日が一しきり夏の盛(さかり)よりも烈しく、ひろびろした河面(かはづら)一帯に燃え立ち、殊更に大学の艇庫の真白なペンキ塗の板目(はめ)に反映してゐたが、忽ち燈(ともしび)の光の消えて行くやうにあたりは全体に薄暗く灰色に変色して来て、満ち来る…

宇野浩二『蔵の中』

そんな間柄ですから、先の私の願ひは破格で聞(きき)とどけられました。私は梅雨の明けた初夏の一日、小僧に案内されて質屋の倉の二階に上つて行きました。反古紙(ほごがみ)に包まれた着物の包(つつみ)が幾層かの棚に順序よく並べられてゐる中を、私は通り抜…