2014-12-01から1ヶ月間の記事一覧

山本夏彦「株式会社亡国論」

つかぬことを言うようだが、私は永年日本語を日本語に翻訳している。翻訳はもと外国語を日本語に移すことを言ったが、私は日本語を日本語に移すのである。 たとえば、いくら資本金が多くても、それが不動産会社なら「千三つ屋」と訳す。証券会社なら「株屋」…

北杜夫『どくとるマンボウ航海記』

夜、十一時に出航の予定だが、それまでは閑である。サード・オフィサー達は大使館のレセプションに行っており、この土地では夜一人で賭博場へ乗りこむ気もしないし金ももうあまりない。ただ本場のカレーだけは食べておこうと思って、ニホンホテルへ出かけた…

花田清輝「楕円幻想」

円は完全な図形であり、それ故に、天体は円を描いて回転するというプラトンの教義に反し、最初に、惑星の軌道は楕円を描くと予言したのは、デンマークの天文学者ティコ・ブラーエであったが、それはかれが、スコラ哲学風の思弁と手をきり、単に実証的であり…

内田百ケン「特別阿房列車」

気を持たせない為に、すぐに云っておくが、この話しのお金は貸して貰う事が出来た。あんまり用のない金なので、貸す方も気がらくだろうと云う事は、借りる側に起(た)っていても解る。借りる側の都合から云えば、勿論借りたいから頼むのであるけれど、若し貸…

芥川龍之介『侏儒の言葉』

クレオパトラの鼻が曲つてゐたとすれば、世界の歴史はその為に一変してゐたかも知れないとは名高いパスカルの警句である。しかし恋人と云ふものは滅多に実相を見るものではない。いや、我我の自己欺瞞は一たび恋愛に陥つたが最後、最も完全に行はれるのであ…

斎藤緑雨の寸言集より

○一歳の者を以て、十歳の者に比較すれば、実に十分の一なれども、それよりたがひに十年を経たりとせよ、十歳と二十歳は、僅(わづか)に二分の一のみとは、或(ある)道の先輩がしたり顔なるに激したる人の言なり。興ありといふべし。(「ひかへ帳」) ○善も悪も…

白川静『孔子伝』

儒教は、中国における古代的な意識形態のすべてを含んで、その上に成立した。伝統は過去のすべてを包み、しかも新しい歴史の可能性を生み出す場であるから、それはいわば多の統一の上になり立つ。儒の源流として考えられる古代的な伝承は、まことに雑多であ…

夏目漱石「私の個人主義」

私はそれから文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるといふより新らしく建設する為に、文芸とは全く縁のない書物を読み始めました。一口でいふと、自己本位といふ四字を漸く考へて、其(その)自己本位を立証する為に、科学的な研究やら哲学的の思索に…

中江兆民『一年有半』

わが日本古(いにしえ)より今に至るまで哲学なし。本居篤胤の徒は古陵を探り、古辞を修むる一種の考古家に過ぎず、天地性命の理(り)に至(いたつ)ては瞢焉(ぼうえん)たり。仁斎徂徠の徒、経説につき新意を出(いだ)せしことあるも、要(よう)、経学者たるのみ。…

福沢諭吉「人間の安心」『福翁百話』より

宇宙の間に我(わが)地球の存在するは大海に浮べる芥子(けし)の一粒と云うも中々おろかなり。吾々の名づけて人間と称する動物は、この芥子粒の上に生れ又死するものにして、生れてその生るる所以を知らず、死してその死する所以を知らず、由(よっ)て来(きた)…

西郷隆盛『西郷南洲遺訓』

道は天地自然の道なるゆゑ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ。己れに克つの極功(きょくごう)は「意母(な)シ必母シ固母シ我母シ」 ○論語 と云へり。総じて人は己れに克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るるぞ。能く古今の人物…