2010-01-01から1年間の記事一覧
雨に濡れた道って歩きたくなる。
信号待ってる時にこそ、人生のお話があるんだよ。その人の人生がふっとこう、来るんだね。何かに出会って写真撮るために足を止めるんじゃなくて、信号で止められた時を撮るのがいいんだ。
『東京猫町』でも書いたけどさ、猫がいなくなったら、町が町でなくなるよ。
街がしゃべってくれてるんだから、写真はそれを複写するだけ。
その時、美術館というのは、入っていくときがいちばん素晴らしいということに気づいた
ぼくたちが美術館の中で探し求めるものは、教会で求めるもの――以前に味わったことのある心やすらぐ神の祝福――とは正反対のものだ。むしろ、美術館では、ぼくたちはまだ人の手に触れられていないもの、以前に誰にも気づかれなかったものを探し求める。そして…
「そのときは、あなたは恋をしているのです。恋は宗教的感情だということをお忘れなく」
「ちがうわ。でも、あなたの体温はすばらしいわ。わたし、あなたの体温を自慢してるのよ」
「では、さようなら」 「さようならって、いつまで?」
「でもね、あたしのような年恰好になると、長つづきのしないおつきあいのほうが良くなるんですのよ」
僕はゆっくりとシーソーに座ってみた。 こんなに狭い幅だったんだ。
「われわれの幸福は暴力でなくして、服従の中にある、富でなくして一切のものの放棄に存する。われわれは草木が光に向かうように、幸福と認める方へ突き進んで行かずにいられない。」
「人間の本性? 人間の本性とは何だろう。人間は動物であるとともに、また人間でもあるのだ。」
「人の罪は目の前だから見えるが、自分の罪は背中だから見えねえのだ」
『人間の中にあるものは何か、人間に与えられていないものは何か、人間はなんで生きるか』
そんなわけだから、今日から考えてみると、自分にもわからないほどだ、僕はことに自分の行為に無関心だったのではなかったか、また、僕は当時、友人より、友情そのものを愛していたのではなかったか。
万事が、それぞれそのあるべきところに戻り、釣合いがとれてくるが、そのかわり、僕はなんとなく落し物をしたような気持だ。どうやら僕には、最初に自分が真実の近くにいたように思えるのだ、そして、僕の生れたばかりの感覚にとって、これほど重要な思い出…
わたしたちの方を向いているものは,どんなものであれ,わたしたちを眺めている.それは,わたしたちに対して,対象に向けられた目のようにある,ということではない.そうではなく,それがわたしたちのなかに入り込み,わたしたちの心を占め,わたしたちに…
「本を読まねば読まぬほど、ひとは本を買いこむ」と彼は言った。「それは歴史が示している」
残念ながら、ある年齢を越すと、誰でも自分の顔に責任がある。わたしのときたら……。
そもそも名所旧跡とは、高貴なる人物、あるいは著名なる人物がその地を踏んだ、そこで歌を詠んだという理由で出来上がっている場合が多く、それを伝えるものが名所絵であった。写真という新技術もまた、こうした伝統的な風景観を踏襲したにすぎない。
1871年に、開拓使は「音無榕山」を名乗る田本に札幌の撮影を命じている(明治4年8月20日付)。田本は1832(天保3)年に現在の三重県熊野市神川町に生まれ、23歳の時に長崎に赴いて蘭医吉雄圭斎の下僕となった。「音無」は故郷熊野の音無川に因み、「榕山」は長崎…
何人もの写真家、写真史家が口をそろえて語るところによれば、田本研造らの北海道の写真が彼らに与えた衝撃とは、日本写真史におけるドキュメンタリー写真の発見であった。
自信をなくすことのない人間っているかしら。わたしは自信を持つときがありません。だからこそ物を書いているのです。自信のないことがわたしの健康であるわけです。書くことは、十のうち九は間違えることです。
《若くなるためには長年かかる》とピカソが言いました。わたしは十年かかりました。
「あたしはただ、死ぬ勇気を与えてくれることだけを、神様に願っていたわ」(中略)「でも、与えてはくれなかった」
わたしの母に言わせれば、夜、寝る前に髪を梳く習慣だけが、彼女たちの唯一の欠点だった。「あんたたち」と母は彼女たちに言ったものだった。「夜、髪を梳かないことだよ、船が遅れるからね」
「人のことで苦しまない方がいいわよ。あたしのことは心配しなくてもいいの。自分の苦しみはちゃんとしたとこにしまってあるんだから。心の火を消しちゃだめよ」 上体を起こして、レンテリア神父のそばまでずって行った。 「わたしの悲しみで慰めてあげるわ…
「行くか来るかで、上りになったり下りになったりするんだよ。行く人には上り坂、来る人には下り坂」
那智の滝天に注連かけ凍てずあり