2011-07-01から1ヶ月間の記事一覧

安部公房『第四間氷期』

政治というやつは、逃げようとすればするほどからみついてくる、蜘蛛の糸みたいなものだ。

安部公房「人魚伝」

「しかし、率直に言わせていただくと、あなたの連想には、どうも無理がある……なにか、自分を、無理に異常だと思いこみたがっているような……」

安部公房「賭」

「肉体以上に、システムが、自分自身なんですね。」

安部公房「透視図法」

「夢というのはな、規則のことなんだ。分るまい、分るまい……」

安部公房「誘惑者」

「そう、すべて自由意志だと思い込ませることが、なんと言っても一番の安全弁ですからね。」

柄谷行人「掘立小屋での思考」

マルクスとかフロイトの出現以来、われわれは事物をいつも裏側からのぞくことになれた。しかし、それによって事物がよくみえるようになったわけではないので、逆にわれわれは事物の「表面」をみる能力をうしなったのであり、「表面」をみすえる努力をするか…

柄谷行人「場所と経験」

私は「人間」について多くのことを知っている。しかし、私が実際に知っているのは数えられるほどの少数の人間である。しかも、彼らを本当に知っているかといえば疑わしい。「人間」に関するどんな理念も、これらの生きた他者を説明できはしない。そして、こ…

柄谷行人「人間的なもの」

傲慢というのは、自分の用意したもの、自分の理解しうるものの領域の外に一歩でも出ないということである。

柄谷行人「藪の中」

厳密にいえば「大衆」などというものは存在しない。存在するのは個々の他者か、もしくは人々を動かしている構造性だけであって、あとはすべて心理的な投影物あるいは想像物にすぎないのである。

柄谷行人「寒山拾得考」

解釈がつくような作品はそれでおしまいである。読みかえすにも足りない。

柄谷行人「夢の世界」

子供として生きている状態と子供時代の記憶は、「夢の世界」と記憶としての夢の関係にひとしい。

柄谷行人「夢の世界」

要するに、われわれがふつう夢と呼んでいるのはすべて「事後の観察」である。夢の世界ではわれわれは文字通り夢中に生きているのであって、しかも生きていることとそれを眺めることとに何の乖離もなく生きているのだ。そこでは「在りさうもない事だけ」が起…

小林秀雄「チェホフ」

御注意して置くが、人間万事身から出た錆ですよ。

小林秀雄「チェホフ」

人間三十歳には三十歳の言葉がある。止むを得ない事です。

小林秀雄「川端康成」

自己反省というものの行き着くところは、自分というものは、ばらばらにしか知る事は出来ぬという事である。そこまで行き着かないで途中にいる人だけが、告白というものを好む。告白につれて、その場限りの心理とか性格とかが発明され、又、何処かに消えて行…

小林秀雄「林房雄」

衰弱して苛々した神経を鋭敏な神経だと思っている。分裂してばらばらになった感情を豊富な感情と誤る。徒らに細かい概念の分析を見て、直覚力のある人だなどと言う。単なる思い付きが独創と見えたり、単なる聯想(れんそう)が想像力と見えたりする。或は、意…

小林秀雄「思想と実生活」

「抽象的思想は幽霊の如し」と正宗氏は言う。幽霊を恐れる人も多すぎるし、幽霊と馴れ合う人も多過ぎるのである。

小林秀雄「作家の顔」

あらゆる思想は実生活から生れる。しかし生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか。

春日武彦『ロマンティックな狂気は存在するか』

己の精神へ、いじましくもささやかな神秘を見いだしたいと願うのは誰しも同じであろう。しかし、だからといって狂気という言葉を曖昧なまま持ち出してそれを自身と関連づけ、その語へ憧れも不安も託してしまうという態度は情けない。 「狂気」の多様性に注意…

春日武彦『ロマンティックな狂気は存在するか』

狂気を無責任な立場で見る限りは、症状が派手であるほど問題は深刻に映る。しかし病気の根の深さと症状の派手さとはパラレルではない。えてして派手な症状は他者の視点を想定して「演じられる」場合があり(といって詐病とか嘘といった意識的なものではない…

春日武彦『ロマンティックな狂気は存在するか』

狂気によって産出される幻覚や妄想の内容が、人々が通常考えているよりは遥かに退屈で硬直したものだという事実があるいっぽう、文学青年だとか芸術家を任じている連中が狂気へ過大な可能性や評価を「片思い」しているという事実もある。狂気は、想像力が一…

春日武彦『ロマンティックな狂気は存在するか』

私は「狂人はあまりにたやすく発見し断定する」といったフレーズをこの章で強調しておきたかったのであった。それは「天才とキチガイとは紙一重」といった俗説とも関わってくるであろう。天才は重大な発明発見を直観的に、凡人から見ればきわめて容易に成し…

春日武彦『ロマンティックな狂気は存在するか』

自我漏洩症状というストーリーが、男女関係を含む対人関係や、社会を意識し自分の存在価値や存在意義をはっきりと自覚する(あるいは自問する)ようになる思春期や青年期に好発するのはまことに象徴的である。「他人に疎まれる存在、敬遠される存在」「迫害…

春日武彦『ロマンティックな狂気は存在するか』

簡潔で暗示に富んだ形式を彼らは嬉しがっているように見える。宇宙を司るメカニズムさえもが一行の言葉に圧縮されている。そのことが大切なのである。あたかもそれは芸術における創作態度と共通しているかのように映るが、裏付けに欠けた安直な表現方法にお…

柄谷行人「凡庸なるもの」

たとえば、新しい「感性」などというものはない、それは新しいテクノロジーにすぎないと考えてみたらどうなのか。ひとびとが感性とか感覚といった言葉で語りたがるものは、きまってラジオとか無声映画、蓄音機といったテクノロジーと結びついている。 ※太字…

柄谷行人「病の記号論」

身体的な病気と精神病の区別も、もちろん「分類」である。そもそも病気と健康の二項対立そのものがそのような「分類」であることはさておいて、病気は、それが分類され区別されるかぎりで、〝客観的〟に存在する。たとえば、医者がそう命名するかぎりでわれ…

柄谷行人「病の記号論」

病気が「意味」だとすれば、健康もそうである。というより、現在支配的なのは健康という「病い」であろう。たとえば、ひとびとは禁煙し、ジョギングをやる。政治的にも、〝健康〟なイデオロギーが支配的となっている。

柄谷行人「鏡と写真装置」

厳密にいえば、鏡は上下も左右も変らないが、「前後」が逆なのである。この点に注意しなければならない。つまり、鏡に閉じこめられている近代の、というよりもそもそも「反省」にはじまる哲学知は、根本的に「前後」をとりちがえている。ニーチェが「結果を…

柄谷行人「鏡と写真装置」

われわれはどんなに反省しても、結局〝鏡〟の外には出られない。ヘーゲルにおける自己疎外・反省の運動は、どこまでいっても「主観性」のなかに閉じこめられている。むしろヘーゲルは、その意味で、たんなる「客観性」を批判しえたというべきなのだ。たとえ…

三浦雅士『私という現象』

世のなかがすべて物語であるのは、むしろ、人間が自分自身にだまっていることのできない存在だからなのだ。自分が何者であるかをつねに自分自身に語りきかせながら生きてゆくほかない存在だからである。このことこそ、世のなかがすべて物語であることの根本…