2011-10-01から1ヶ月間の記事一覧

川端康成「一人の幸福」

一生の間に一人の人間でも幸福にすることが出来れば自分の幸福なのだ。

川端康成「霊柩車」

こんな風に人間というものは死者に礼拝しているつもりで生者にも礼拝していることがあるし、また生者を眺めているつもりでもその影に死者がいることだってあるのだね。君が汽車の窓から何心なく自動車を見るとそれが愛人の葬列であったりするのだね。

川端康成「霊柩車」

昔から君は偶然というものに対して無関心であり過ぎるようだ。自分がやがて死ぬべき人間だということを忘れているかのようだ。

川端康成「万歳」

「よろしい。その空想を買いましょう。」

川端康成「海」

「私に海が見えないようにして連れて行ってね。」

川端康成「人間の足音」

「そんなものはどうだっていい。足だよ。初夏の人間の足だよ。」

川端康成「バッタと鈴虫」

この寂しい土手に二十人の子供が集まり美しい灯が揺れるまでには一つの童話がなければならない。

中島敦「悟浄出世」

「……そういう事が起りそうな者に、そういう事が起り、そういう事が起りそうな時に、そういう事が起るんだな。」

中島敦「悟浄出世」

「我々の運命を決定する大きな変化は、みんな我々の意識を伴わずに行われるのだぞ。考えてもみよ。お前が生れた時、お前はそれを意識しておったか?」

中島敦「かめれおん日記」

(考えてみれば、元々世界に対して甘い考え方をしていた人間でなければ、厭世観を抱くわけもないし、自惚やか、自己を甘やかしている人間でなければ、そういつも「自己への省察」「自己呵責」を繰返す訳がない。だから、俺みたいに常にこの悪癖に耽るものは…

中島敦「かめれおん日記」

金魚鉢の中の金魚。自分の位置を知り、自己及び自己の世界の下らなさ・狭さを知悉している絶望的な金魚。 絶望しながらも、自己及び狭い自己の世界を愛せずにはいられない金魚。

中島敦「かめれおん日記」

俺というものは、俺が考えているほど、俺ではない。俺の代りに習慣や環境やが行動しているのだ。これに、遺伝とか、人類という生物の一般的習性とかいうことを考えると、俺という特殊なものはなくなってしまいそうだ。

山田風太郎『戦中派虫けら日記』

つまりわれわれは、ただこの世に生まれ、ただ生き、そしてただ死んでゆくだけなのではないか。

山田風太郎『戦中派虫けら日記』

鏡花は指が六本ある美女のような気がする。

山田風太郎『戦中派虫けら日記』

しかし、真の愛はつねに盲目の愛ではあるまいか。少なくとも自分の飢えていたのはそんな愛であった。奮発心を起させるために万金の金を見せつつ与えない人よりも、ただ涙をそそいでくれる人の愛であった。

山田風太郎『戦中派虫けら日記』

自分は、だれも自分を理解しないからさびしいと思った。が、だれもが自分を理解したらいっそうさびしくなるかも知れない。

山田風太郎『戦中派虫けら日記』

もし自分の前に出て、おのれにやさしき両親のあることを誇る人間があるなら、自分はこれを笑う。 どんなにやさしい両親も、それは彼の両親であって、自分の両親ではない。それなら、街頭に喧騒している無数の人間どもは、たいてい人の子の親である。人の子の…

山田風太郎『戦中派虫けら日記』

大都会の空は大きく、風は冷やかである。天涯孤独の自分、しかもいかに泣言をならべてみても、絶対それは無益なことを骨身に徹して知っている自分。――その自分を眺めるとき、笑いはもとより湧かぬ。涙ももとより湧かぬ。ただ――沈黙するばかりである。

山田風太郎『戦中派虫けら日記』

自分は心に考えていることを文章に書くと、急に第三者の眼で自分を眺めるから、それが噓になる。他人が読まぬとわかっているものでも、自分に対して嘘をつく。未来の自分が読むときの心を思って噓をつく。何にもならないことだ。

山田風太郎『戦中派虫けら日記』

実際、母のいないほど致命的な不幸はない。どんなに悶え、どんなに苦しみ、どんなに寂しがっても、なぐさめてくれるのは母一人で、それ以外はどんなに絶叫して訴えても、しょせんはアカの他人である。この不幸は凄惨なほどである。

山田風太郎『戦中派不戦日記』

予想というものは、一般に希望の別名であることが多い。希望とは自分の利益となる空想である。従って、これを逆にいえば「あいつは大した人間にはなれないだろう」などよく人は断言するが、これはその「あいつ」なるものが評者にとって不利益な人間であるこ…

山田風太郎『戦中派不戦日記』

二歩進むためにも、百歩進むためにも、最初の一歩は絶対必要だ。

山田風太郎『戦中派不戦日記』

神はない。少くとも弱者に神はない。従って神は決して存在しない。

山田風太郎『戦中派不戦日記』

しかし人間の真実は――少くとも真実の一面は、案外「曳かれ者の小唄」の中にあるものである。

山田風太郎『戦中派不戦日記』

「また今度笑って逢えたら倖せだなあ」 というのが二人の最後の別れの言葉だった。

山田風太郎『戦中派不戦日記』

自分は幸福な家庭を見るとき、いつも胸の中で何者かが薄暗く首を垂れるのを感じる。そしてまたその首が薄暗くもちあがるのを感じる。その首がつぶやく。この不幸がやがておれの武器となる、と。――

山田風太郎『戦中派不戦日記』

美しい絵には陰翳が必要である。一つの幸福が享受されている陰には、必ず何人かそれに比例する苦痛をなめている。少くとも〝生きている者〟すべてに何の害をも及ぼさない幸福が、この地上にないものだろうか。

山田風太郎『戦中派不戦日記』

焦げた手拭いを頰かむりした中年の女が二人、ぼんやりと路傍に腰を下ろしていた。風が吹いて、しょんぼりした二人に、白い砂塵を吐きかけた。そのとき、女の一人がふと蒼空を仰いで 「ねえ……また、きっといいこともあるよ。……」 と呟いたのが聞えた。 自分の…

山田風太郎『戦中派不戦日記』

運、この漠然とした言葉が、今ほど民衆にとって、深い、凄い、恐ろしい、虚無的な――そして変な明るさをさえ持って浮かび上った時代はないであろう。東京に住む人間たちの生死は、ただ「運」という柱をめぐってうごいているのだ。

中島敦「文字禍」

単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを有たせるものは、何か? ここまで思い到った時、老博士は躊躇なく、文字の霊の存在を認めた。魂によって統べられない手・脚・頭・爪・腹等が、人間ではないように、一つの霊がこれを統べるのでなくて、どうし…