2013-12-01から1ヶ月間の記事一覧

司馬遼太郎『豊臣家の人々』、第九話

秀吉はつねにおのれの本心を首筋の血管のように露呈している男であり、つねに本気であり、たとえうそをつくときでも本心からうそをつけるめずらしい種類の男であった。誠実は一筋しかないという愚鈍さはかれにはなく、かれにあっては誠実も本心もその体内の…

花田清輝『さちゅりこん』

しかし、挫折とはなにか。成功とはなにか。挫折者が成功者ではなく、成功者が挫折者ではないと誰が保証することができよう。

芥川龍之介『或阿呆の一生』

僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしてゐる。しかし不思議にも後悔してゐない。

川端康成『舞姫』

波子はだまつてゐたが、胸の底に、冷たい炎がふるへた。

川端康成『舞姫』

波子の身の上相談も、愛の訴へに聞えた。それだけの年月が、二人のあひだに流れてゐた。この年月は、二人のつながりでもあり、へだてでもあつた。

『平家物語』灌頂の巻

住み荒して年久しうなりければ、庭には草深く、軒にはしのぶ茂れり。簾は絶え閨(ねや)露(あらは)にて、雨風たまるべうもなし。花は色々匂へども、主(あるじ)と頼む人もなく、月は夜々(よな/\)さし入れども、詠(なが)めて明かす主(ぬし)もなし。

井上ひさし『日本人のへそ』

二人 スラムでは 審判員 金をためるかわりに 垢をためる 会社員 犬を飼うかわりに 蚤を飼う 審判員 女中を雇うかわりに 女中に雇われる 会社員 夏 ひやむぎを喰うかわりに 冬 ひやめしを喰う 審判員 小切手をかくかわりに 赤っ恥をかく

夏目漱石『道草』

彼女は仏壇から眼を放して健三を見た。健三はわざと其視線を避けた。 心細い事を口にしながら腹の中では決して死ぬと思つてゐない彼女の云ひ草には、世間並の年寄と少し趣を異にしてゐる所があつた。慢性の病気が何時迄(いつまで)も継続するやうに、慢性の寿…

石川淳『善財』

志方大吉にとつては、世界は海でしかなかつた。陸はといへば、ときどき酒と女とを補給するための足だまりであり、それ以外にはじつに何の取柄もない泥のかたまりにすぎなかつた。海にはしぜんに塩と魚とがあるやうに、陸にはしぜんに酒と女とがあつた。

筒井康隆『狂気の沙汰も金次第』

時速二百キロで走っている新幹線が故障すると、次第にスピードがのろくなり、最後はレールの上で、じわーっと停ってしまう。 飛行機が空を飛んでいる最中に故障した場合、次第にスピードがのろくなり、最後には空中でじわーっと停ってしまうことはない。この…

倉橋由美子『暗い旅』

あなたはかれが自分の家に帰っている可能性をほとんど信じない、あなたにとってもかれにとっても、家は帰還すべき巣ではなくつねに脱出すべき檻だったから。

中村真一郎『回転木馬』

電話の声は、野放図に、愉しそうに呼びかけてくる。「お兄さん? 今、おひま? 私、御相談したいことがあるの。……」 妹だ、阿蘇とは十以上も齢の違う妹、彼の反対を押しきって、映画のニュー・フェイスになり、それから、有難いことには、あまり有名にもなら…

有吉佐和子『華岡青洲の妻』

だが患者が多くても、飢饉の最中に治療費を払うことのできる者は僅かしかいない。医家の入口は栄えても、奥向は困窮する一方であった。雲平は薬を惜しむことはしなかった。値上りしている薬草をふんだんに使って薬湯を煎じ、膏を練り上げて、病人には気前よ…

パスカル『パンセ』L五五九

ことばに無理を強いて対比表現をこしらえる人々は、対称形のために見せかけだけの窓をこしらえる人々のようだ。 彼らの規準は、正しく話すことではなく、正しいかたちをこしらえることなのだ。

兼好『徒然草』第三十五段

手のわろき人の、はゞからず文書きちらすは、よし。みぐるしとて、人に書かするは、うるさし。

大岡昇平『武蔵野夫人』

その夜から秋山には新しい意志が目覚めた。これはもう以前のいつも嫉妬してゐる男ではなかつた。このいやな感情を払ひ落すためにも、行動しなければならぬと彼は思つた。彼の師スタンダールは意志と行動を説いてゐるではないか――しかしかういふ亜流の熱狂が…

『平家物語』巻三

山の方(かた)のおぼつかなさに、はるかに分け入り、嶺(みね)に攀(よ)ぢ、谷に下れども、白雲跡を埋(うづ)んで、往来(ゆきき)の道もさだかならず。晴嵐(せいらん)夢を破つては、その面影も見えざりけり。山にてはつひに尋ねも逢はず。海の辺(ほとり)について…

井伏鱒二『本日休診』

最近、場所がらのせゐか、若い男が刺青を抜いてくれと云つて来るやうになつたので、ごく簡単な刺青なら剥ぎとる手術を施してゐる。なかには若い女も、刺青を取つてくれと云つて来ることもある。たいてい男の場合は、桃とか錨とか女の名前や頭文字など上膊部…

田中小実昌『自動巻時計の一日』

顔と手がぬれたまま、風呂場をでる。そして、ほとんど毎朝、タオルをさがす。うちの風呂場には、たいてい、タオルはない。あっても、ぬれている。風呂場から出たところの板の間に、足ふきのぞうきんが、二、三枚おいてあり、めんどくさいときは、それで顔を…

山本周五郎『青べか物語』

「おうよ」と他の水夫が云った、「名めえをはっきり云ったなあ、ゆんべが初めてだっけ。ずっとめえから何遍も好きだあ好きだってねごとう云ってたっけだ」 「お、か、ね、さん」と先の水夫が両手で自分の肩を抱きしめ、身もだえしながら作り声で云った。「お…

井上ひさし『四十一番の少年』

孝が利雄の腕を枕にして、 「いんちき」 と口を尖らせたような口調になった。利雄はしつっこく続けた。 「きょうだい」 孝の返事はもうなかった。返事のかわりに、利雄の腕の上で孝の頭が重くなった。

落語『らくだ』円生

「だからよう、くどいことは言わねえから、もう一杯だけつきあいねえ、な? で、きゅっと引(し)っかけて、〔……〕商(あきね)えに行きねえ、そうしねえ。え? もう一杯だけ飲みねえ……だめか? おう、飲めねえのか、おう」 「ほんとうにもう、二杯いただいてる…

落語『らくだ』円生

「ええ、どちらか、お出かけになりましたんで? らくださんは……」 「出かけやしねえや、ここにいるよ」 「……はあ、寝てらっしゃるんですな」 「ふん……違(ちげ)えねえ、よく寝てえらあ、もう生涯(しょうげえ)起きやしねえ」 「……ど、どうしたんで」 「くたば…

紀貫之

夢路にも 露やおくらむ よもすがら かよへえる袖の ひぢてかはかぬ

藤原ただふさ

いつわりの 涙なりせば 唐衣 しのびに袖は しぼらざらまし

大江千里

ねになきて ひぢにしかども 春さめに ぬれにし袖と とはばこたへむ

丸谷才一『年の残り』

十月十七日(金) 四時帰宅。妹とケンカをする。彼女はどうも程度が低い。最低である。特に記すべきことなし。後藤正也氏はユーウツであった。 〔……〕 十一月十九日(日) 午前中、数学。夜、テレビをすこし見てから英語。ポーの難単語に苦しむ。妹はグルー…

大岡昇平『武蔵野夫人』

学者秋山の出世主義にはもともと徳の入る余地は少なかつたが、彼の姦通の趣味は主として彼の専門のスタンダール耽読によつて涵養された。この十九世紀サロンの大恋愛者は、夫婦関係を少しも恋愛の障害とは考へてゐなかつた。むしろ情熱をそゝり、偉大にまで…

安岡章太郎『埋まる谷間』

この家に住んで、もう四年半になる。私が、ここに五一・七五坪の土地を買い、十一・三五坪のセメント原型スレート葺の家をたてたころには、このへんはT川にそそぐ沢のような湿地帯で、住宅地のなかでは取り残され、見棄てられたような一劃だった。 いや事実…

川端康成『雪国』

島村は少し恥かしさうに苦笑して、「どうもありがたう。手伝ひに来てるの?」 「ええ」と、うなづくはずみに、葉子はあの刺すやうに美しい目で、島村をちらつと見た。島村はなにかに狼狽した。