2011-06-01から1ヶ月間の記事一覧

ロラン・バルト『物語の構造分析』(花輪光 訳)

「テクスト」は複数的である。ということは、単に「テクスト」がいくつもの意味をもつということではなく、意味の複数性そのものを実現するということである。それは還元不可能な複数性である(ただ単に容認可能(アクセプターブル)な複数性ではない)。「…

ロラン・バルト『物語の構造分析』(花輪光 訳)

読者の誕生は、「作者」の死によってあがなわれなければならないのだ。

ロラン・バルト『物語の構造分析』(花輪光 訳)

一編のテクストは、いくつもの文化からやって来る多元的なエクリチュールによって構成され、これらのエクリチュールは、互いに対話をおこない、他をパロディー化し、異議をとなえあう。しかし、この多元性が収斂する場がある。その場とは、これまで述べてき…

ロラン・バルト『物語の構造分析』(花輪光 訳)

ひとたび「作者」が遠ざけられると、テクストを《解読する》という意図は、まったく無用になる。あるテクストにある「作者」をあてがうことは、そのテクストに歯止めをかけることであり、ある記号内容を与えることであり、エクリチュールを閉ざすことである。

ロラン・バルト『物語の構造分析』(花輪光 訳)

われわれは今や知っているが、テクストとは、一列に並んだ語から成り立ち、唯一のいわば神学的な意味(つまり、「作者=神」の《メッセージ》ということになろう)を出現させるものではない。テクストとは多次元の空間であって、そこではさまざまなエクリチ…

ロラン・バルト『物語の構造分析』(花輪光 訳)

作者というのは、おそらくわれわれの社会によって生みだされた近代の登場人物である。われわれの社会が中世から抜け出し、イギリスの経験主義、フランスの合理主義、宗教改革の個人的信仰を知り、個人の威信、あるいはもっと高尚に言えば、《人格》の威信を…

ロラン・バルト『物語の構造分析』(花輪光 訳)

しかし大勢としては、われわれの社会もまた、できるかぎり注意深く物語状況のコード化を押し隠そうとする。きっかけとなる自然な機会を物語に与え、いわば物語の《発端をなくす》ふりをすることによって、これから始まる物語を自然化しようとする物語行為の…

E・F・ロフタス+K・ケッチャム『抑圧された記憶の神話――偽りの性的虐待の記憶をめぐって』(仲真紀子 訳)

人は誰でも人生による「傷」を負うている。したがって重要な問いは、これらの傷について何をすればよいのか、ということだろう。記憶が虚構の一種であることを認識したなら、カウンセラーはクライエントにこう言うこともできる。あなたの体験が記憶によって…

E・F・ロフタス+K・ケッチャム『抑圧された記憶の神話――偽りの性的虐待の記憶をめぐって』(仲真紀子 訳)

認知心理学者は、イメージに熱中しすぎると現実と想像の区別が難しくなることを知っている。また法心理学者は、誘導されたイメージは催眠で生じるのと似た解離的な症状を促進する――つまりイメージは催眠同様、記憶を回復する方法としては信頼できない――こと…

E・F・ロフタス+K・ケッチャム『抑圧された記憶の神話――偽りの性的虐待の記憶をめぐって』(仲真紀子 訳)

「スクリーン・メモリーは自分が重要で特別だという感覚、それに冒険心さえ与えてくれるのです」(中略)「クライエントは子どもの頃、愛されず、かまってもらえなかったと感じているかもしれません。また自分はごく普通の人間で、面白いことも変わったこと…

E・F・ロフタス+K・ケッチャム『抑圧された記憶の神話――偽りの性的虐待の記憶をめぐって』(仲真紀子 訳)

「抑圧」……。この言葉は秘密めいた闇、埋もれた宝だ。片隅でこの世のものならぬ衣ずれの音がする、蜘蛛の巣と埃の部屋……。記憶の心理学において、抑圧ほどおどろおどろしく、ロマンチックな概念はないだろう。

中原昌也『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』

あの世は死者の憎悪で充満しているものだ。大した理由もなく、俺はそう感じた。

中原昌也『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』

最早彼にとって独り言とは、脳より先に思考される場であった。ようするに思考されるべき内容が、一度音声として空気中に出現した後に、自らの耳を通ってからやっと脳に入ってくるのだ。巨大ロボットを操るアニメのヒーローが武器を使う時にいちいちその武器…

中原昌也『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』

この地球上で陰惨な死の舞台となったことのない場所は存在しないのかもしれない。人類が誕生して以来、常にどこかがおぞましい殺戮の現場になっている筈だ。

中原昌也『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』

ボーッとしながらベンチで様々な人々が通り過ぎて行くのを見つめていると、なんとなくいい気分になってくるものだ。世の中の全ての人が週に一回でもいいから、こうやって公園のベンチでのんびりすればきっと人々が憎み合ったり、戦争が起きたりしないのにと…

中原昌也『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』

悲しい。悲しすぎる……。今はただ沈黙したいだけだ。

中原昌也『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』

最近は生きることの苦しさばかりが身にしみる。

山口瞳『江分利満氏の優雅な生活』

バカバカしいことさ。バカバカしいけど大事なことなんだ、これは。

山口瞳『江分利満氏の優雅な生活』

この人たちを殺したのは誰か。殺したのは江分利自身である。昭和に生きた日本人である。昭和の日本人は、恥ずかしい。

山口瞳『江分利満氏の優雅な生活』

野球ばかりやってた奴。ダメな奴。応援ばかりしてた奴。なまけ者。これは仕方がない。 しかし、ずるい奴、スマートな奴、スマート・ガイ、抜け目のない奴、美しい言葉で若者を釣った奴。美しい言葉で若者を誘惑することで金を儲けた奴、それで生活していた奴…

山口瞳『江分利満氏の優雅な生活』

昭和12年の大学生は、昭和12年の日本について何を知っていたのだろうか、君たちの力で戦争を止めることはできなかったか。そりゃ無理だよ。そんなこと出来るワケがない。昭和の日本では戦争は避け難い。 それじゃ学生は浮かれていたのだろうか、絶望していた…

H.S.クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか――現代のヨブ記』(斎藤武 訳)

愛は完全無欠を賛美することではなく、欠点のある人を欠点にもかかわらず受け入れることなのです。不完全な人間を愛し受け入れることによって、私たちはより善い人間、より強い人間になっていくのです。

H.S.クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか――現代のヨブ記』(斎藤武 訳)

人生の問題を片づけながら生き続けたいと思うのなら、すべての不幸は自分の責任だという理屈に合わない感情、つまり、自分の失敗や悪い行いがすべてを招いたという思いを克服しなければなりません。自分ですべてを引き起こすほどの力は、私たちにはないので…

H.S.クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか――現代のヨブ記』(斎藤武 訳)

人生に傷ついた人にとってもっとも不幸なことは、追い討ちをかけるように自らを傷つけ、傷口を広げてしまう傾向があるということです。人から拒絶されたり、家族を失ったり、けがをしたり、運が悪かったりということだけではすまず、自分は悪い人間だからこ…

H.S.クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか――現代のヨブ記』(斎藤武 訳)

しかし、もし私たちが、神が支配していないことがらもあるのだと、見方を変えることができたとしたら、たくさんの素晴らしいことが可能になるのです。

スーザン・ソンタグ『反解釈』(高橋康也、出淵博、由良君美、海老根宏、河村錠一郎、喜志哲雄 訳)

作品と経験の確かな実在感を薄めてしまってはならない。批評の機能は、作品がいかにしてそのものであるかを、いや作品がまさにそのものであることを、明らかにすることであって、作品が何を意味しているかを示すことではない。 ※太字は出典では傍点

スーザン・ソンタグ『反解釈』(高橋康也、出淵博、由良君美、海老根宏、河村錠一郎、喜志哲雄 訳)

現代における解釈は、つきつめてみると、たいていの場合、芸術作品をあるがままに放っておきたがらない俗物根性にすぎないことがわかる。本物の芸術はわれわれの神経を不安にする力をもっている。だから、芸術作品をその内容に切りつめた上で、それを解釈す…

スーザン・ソンタグ『反解釈』(高橋康也、出淵博、由良君美、海老根宏、河村錠一郎、喜志哲雄 訳)

世界そのもの、われわれの世界が、すでに充分すぎるくらい萎縮して、貧困化しているのだ。それをさらに複製した代物などは、われわれはいっさいご免こうむらなければならぬ。そして再びわれわれのもっているものをもっと直接的に経験するようにならなければ…

スーザン・ソンタグ『反解釈』(高橋康也、出淵博、由良君美、海老根宏、河村錠一郎、喜志哲雄 訳)

内容を極度に重く見る結果何が生じるかといえば、それは解釈という試み――絶えることのない、そして決して成就することのないあの企図である。これを逆に言っても同じである。すなわち、芸術作品を解釈しようとしてこれに近づく習癖があるからこそ、作品の内…

岸田秀『ものぐさ精神分析』

常識によれば、悪人が悪事を働くのであるが、歴史が証明する通り、この世の悪事のほとんどは、「正義感」にかられて「悪人」に「正義の鉄鎚」を下す「正義の味方」がやらかしたものである。歴史は、善の名でなされなかった悪をいまだかつて知らない。