2015-05-01から1ヶ月間の記事一覧

有吉佐和子「芝桜」

正子は決して不器用な娘ではない。踊りだって、清元だって、師匠が将来有望だと本気で期待しているほど勘がいいのである。だが何分にも狙いをつける金魚が大きすぎた。それはほんの数匹、金魚屋が見た目の景気づけに入れてある金魚だった。縁日に群がって来…

辻邦生「嵯峨野明月記」

一の声 私はもうすでに十分生きながらえてきたように思う。いまは残る歳月をお前たちのために役立てたいと思うばかりだ。私にはかつてのような体力もなく、お前たちや職人一統を率いてゆく気力もない。私がここを経営してすでに二十年。はじめて家の土台が置…

司馬遼太郎「坂の上の雲」

まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。 その列島のなかの一つの島が四国であり、四国は、讃岐、阿波、土佐、伊予にわかれている。伊予の首邑は松山。 城は、松山城という。城下の人口は士族をふくめて三万。その市街の中央に釜を伏せたような…

古井由吉「木曜日に」

鈍色にけぶる西の中空から、ひとすじの山稜が遠い入江のように浮び上がり、御越山の頂きを雷が越しきったと山麓の人々が眺めあう時、まだ雨雲の濃くわだかまる山ぶところの奥深く、幾重もの山ひだにつつまれて眠るあの溪間でも、夕立ち上りはそれと知られた…

藤枝静男「一家団欒」

水面からの反射光とも、空からの光ともつかぬ、白っぽい光線が湖上に遍満していて、水だけはもう生まぬるい春の水になっていた。 章はそのなかを、遠い対岸めざして一直線に渡って行った。そうして、岸辺に到着すると、松林のなかを再びまっすぐに歩いて行っ…

丸谷才一「笹まくら」

香奠(こうでん)はどれくらいがいいだろう? 女の死のしらせを、黒い枠に囲まれた黄いろい葉書のなかに読んだとき、浜田庄吉はまずそう思った。あるいは、そのことだけを思った。その直前まで熱心に考えつづけていたのが、やはり香奠のことだから、すぐこんな…

梅崎春生「幻化」

五郎は背を伸ばして、下界を見た。やはり灰白色の雲海だけである。雲の層に厚薄があるらしく、時々それがちぎれて、納豆の糸を引いたような切れ目から、丘や雑木林や畠や人家などが見える。しかしすぐ雲が来て、見えなくなる。機の高度は、五百米くらいだろ…

小沼丹「黒と白の猫」

妙な猫がゐて無断で大寺さんの家に上り込むやうになつた。或る日、座敷の真中に見知らぬ猫が澄して坐つてゐるのを見て、大寺さんは吃驚した。それから、意外な気がした。それ迄も、不届な無断侵入を試みた猫は何匹かゐたが、その猫共は大寺さんの姿を見ると…

中川李枝子「たまご」

のねずみのグリとグラは、大きなかごをもって、森のおくへでかけました。 ぼくらのなまえは グリとグラ このよでいちばんすきなのは おりょうりすること たべること グリ グラ、グリ グラ 「どんぐりをかごいっぱいひろったら、おさとうをたっぷりいれてによ…

古田足日『新版 宿題ひきうけ株式会社』

話は、まず宿題ひきうけ株式会社のことからはじまる。 この会社は名前どおり、宿題を本人のかわりにやってくれる会社だ。 たとえば、江戸時代の交通の地図を書けという宿題が出たとする。それをしらべたり、書いたりするのがめんどうくさいときは、この会社…

水上勉「越前竹人形」

「家内でござります」 と、喜助はひくい声で鮫島に紹介した。鮫島は、さきほど喜助が母屋に入ったとき、声をかけていたのはこの細君をよんでいたのか、と思いながら、ゆっくりと玉枝の顔に目をやった。瞬間息をのんだ。 美貌だったからだ。すらりと背の高い…

北杜夫「楡家の人びと」

楡病院の裏手にある賄場は昼餉の支度に大童であった。二斗炊きの大釜が四つ並んでいたが、百人に近い家族職員、三百三十人に余る患者たちの食事を用意しなければならなかったからである。 竈の火はとうにかきだされ、水をかけられて黒い焼木杭になった薪が、…

檀一雄「火宅の人」

「第三のコース、桂次郎君。あ、飛び込みました、飛びこみました」 これは私が庭先をよぎりながら、次郎の病室の前を通る度に、その窓からのぞきこんで、必ず大声でわめく、たった一つの、私の、次郎に対する挨拶なのである。 こんな時、次郎は大抵、マット…

安部公房「無関係な死」

客が来ていた。そろえた両足をドアのほうに向けて、うつぶせに横たわっていた。死んでいた。 もっとも、事態をすぐに飲込むというわけにはいかなかった。驚愕がおそってくるまでには、数秒の間があった。その数秒には、まるで電気をおびた白紙のような、息づ…

三浦哲郎「忍ぶ川」

志乃をつれて、深川へいつた。識りあつて、まだまもないころのことである。 深川は、志乃が生まれた土地である。深川に生まれ、十二のとしまでそこで育つた、いわば深川ッ子を深川へ、去年の春、東北の片隅から東京へ出てきたばかりの私が、つれてゆくという…

松谷みよ子「龍の子太郎」

けわしい山が、いくつも、いくつも、かさなりあってつづいている山あいに、小さな村がありました。村の下には、すきとおった谷川が、こぼこぼと音をたててながれていましたが、あたりはまるっきりのやせ地で、石ころだらけの小さな畑からは、あわだの、ひえ…

島尾敏雄「死の棘」

私たちはその晩からかやをつるのをやめた。どうしてか蚊がいなくなった。妻もぼくも三晩も眠っていない。そんなことが可能かどうかわからない。少しは気がつかずに眠ったのかもしれないが眠った記憶はない。十一月には家を出て十二月には自殺する。それがあ…

倉橋由美子「パルタイ」

ある日あなたは、もう決心はついたかとたずねた。わたしはあなたがそれまでにも何回となくこの話を切りだそうとしていたのを知っていた。それにいつになくあなたは率直だった。そこでわたしも簡潔な態度をしめすべきだとおもい、それはもうできている、と答…

永井龍男「一個」

(冒頭)「柱時計の振り子の音で、けさ四時まで、完全に眠れなかったんだからな」 佐伯は、自分にいい聞かせた。 そのくせ、自分を乗せて走っている電車の騒音には無感覚だった。 (結末近く)だが、柱時計は命じた。 「明けなさい、止めなさい、明けなさい…

串田孫一「山に関する断想」

これまで、沢山の人が山へ登った。これからも登り続けるだろう。恐らく山がある限り人は山へ登る。それなら、人類は最後まで山へ登るだろうか。人類の最後の日が来ても山は地上に聳えているだろうから。 しかし、人はそれまで、山に対して謙虚であり得ないか…

福永武彦「影の部分」

ソシテ人間ノ一生ハ何処カラカ既ニキマッテシマッテイルノダ。人ハ運命トイウ。シカシソレヲキメルノハ彼(或イハ彼女)自身ノ影ノ部分ダ。シカシ誰ガ、イツ、遅スギズニ、ソノコトニ気ガツクノカ。 もしこれが小説ならば、僕は事実だけを簡潔に語って、現実…

井上靖「楼蘭」

往古、西域に楼蘭と呼ぶ小さい国があった。この楼蘭国が東洋史上にその名を現わして来るのは紀元前百二、三十年頃で、その名を史上から消してしまうのは同じく紀元前七十七年であるから、前後僅か五十年程の短い期間、この楼蘭国は東洋の歴史の上に存在して…

大江健三郎「さようなら、私の本よ!」

老年になりながら、それも暴力がらみの深手(ふかで)を負って入院した長江古義人(ちょうこうこぎと)は、大病院の個室に顔を出す見舞客の思いがけなさに戸惑うことがあった。個人負担で、ベッドの底に退避用の大型パイプを設置したかった。しかし永年会うこと…

大江健三郎「みずから我が涙をぬぐいたまう日」

ある真夜中、かれがローテスクの回転式鼻毛切りで、もう生きた足の上に乗っかって塵埃の巷に出てゆくこともない、自分の鼻を、猿の鼻孔さながらに、鼻毛いっぽんはえていないものにすべく、しきりに刈りこんでいると、おなじ病院の精神科病棟から抜け出てき…

大江健三郎「死者の奢り」

死者たちは、濃褐色の液に浸って、腕を絡みあい、頭を押しつけあって、ぎっしり浮かび、また半ば沈みかかっている。彼らは淡い褐色の柔軟な皮膚に包まれて、堅固な、馴じみにくい独立感を持ち、おのおのの自分の内部に向って凝縮しながら、しかし執拗に躰を…

小川国夫「アポロンの島」

ミケネの遺跡はアテネへ行く街道から少し入った所にあった。柚木浩がミケネから歩いてこの道路に出て、バスを待っていた時には日が照っていた。コリントでバスが十分位小休止をした時、彼は下りて葡萄を買ったが、雨が頬に当った。 浩は土砂降りになっていた…

松本清張「点と線」

安田辰郎は、一月十三日の夜、赤坂の割烹料亭「小雪」に一人の客を招待した。客の正体は、某省のある部長である。 安田辰郎は、機械工具商安田商会を経営している。この会社はここ数年に伸びてきた。官庁方面の納入が多く、それで伸びてきたといわれている。…

深沢七郎「楢山節考」

山と山が連っていて、どこまでも山ばかりである。この信州の山々の間にある村――向う村のはずれにおりんの家はあった。家の前に大きい欅の根の切株があって、切口が板のように平たいので子供達や通る人達が腰をかけては重宝がっていた。だから村の人はおりん…

幸田文「流れる」

このうちに相違ないが、どこからはひつていゝか、勝手口がなかつた。 往来が狭いし、たえず人通りがあつてそのたびに見とがめられてゐるやうな急いた気がするし、しやうがない、切餅のみかげ石二枚分うちへひつこんでゐる玄関へ立つた。すぐそこが部屋らしい…

小島信夫「馬」

僕はくらがりの石段をのぼってきて何か堅いかたまりに躓き向脛を打ってよろけた。僕の家にこんな躓くはずのものは今朝出がけにはなかった。今朝出がけではなく、今まで三年何ヵ月のあいだにこんな障害物はなかった。これはいったい何であろうと思ってさわっ…