2015-05-01から1ヶ月間の記事一覧

井上ひさし「ロマンス」

(マリヤ役の女優)あなたが去って/時がたった/けれども四つの芝居は/いまも大流行(おおはやり)/(オリガ役の女優)あなたが去って/噂がのこった/いいのもあれば/いやなのもある/(六人でリフレイン)そう、胸を病み血を吐いたチェーホフ/主義もな…

津島佑子「ナラ・レポート」

かすかな光の点滅のように、あるいは、とても小さなさざ波のようにはじめは感じるものなのだろうか。それとも、こそばゆい感覚とともに、なにかが遠くをよぎっていくように感じるのかもしれない。 少年は思いを集中させつづける。とまどいながらも確信をこめ…

川上弘美「溺レる」

少し前から、逃げている。 一人で逃げているのではない、二人して逃げているのである。 逃げるつもりはぜんぜんなかった、逃げている今だって、どうして逃げているのかすぐにわからなくなってしまう、しかしいったん逃げはじめてしまったので、逃げているの…

遠藤周作「深い河」

やき芋ォ、やき芋、ほかほかのやき芋ォ。 医師から手遅れになった妻の癌を宣告されたあの瞬間を思い出す時、磯辺は、診察室の窓の下から彼の狼狽を嗤うように聞こえたやき芋屋の声がいつも甦ってくる。 間のびした呑気そうな、男の声。 やき芋ォ、やき芋、ほ…

金井美恵子「柔らかい土をふんで、」

柔らかい土をふんで、そうでなくとももともと柔らかいあしのうらは音など滅多にたてずごく柔らかなふっくらとして丸味をおびた肉質のものが何かに触れる微かな音をたてるだけなのだが、固いコンクリートや煉瓦の上や、建物の一階分だけ正面の壁と床にチェス…

小川洋子「冷めない紅茶」

その夜、わたしは初めて死というものについて考えた。風が澄んだ音をたてて凍りつくような、冷たい夜だった。そんなふうに、きちんと順序立てて死について考えたことは、今までなかった。 確かにそれまでにも、わたしの周りにいくつかの死はあった。 小学校…

池澤夏樹「スティル・ライフ」

この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。 世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。 きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知って…

村上春樹「ノルウェイの森」

僕は三十七歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。その巨大な飛行機はぶ厚い雨雲をくぐり抜けて降下し、ハンブルグ空港に着陸しようとしているところだった。十一月の冷ややかな雨が大地を暗く染め、雨合羽を着た整備工たちや、のっぺりとした空…

富岡多恵子「波うつ土地」

以前は夜になるとテレビジョンを見ていた。よく見た番組に若い男女のお見合いゲームのようなものがある。はじめは男女が顔を見ないで声だけをアテに相手を想像していたのが、司会者のゴタイメーンという合図で両者の間にあった仕切りがあがると、はじめてふ…

中上健次「千年の愉楽」

明け方になって急に家の裏口から夏芙蓉の甘いにおいが入り込んで来たので息苦しく、まるで花のにおいに息をとめられるように思ってオリュウノオバは眼をさまし、仏壇の横にしつらえた台に乗せた夫の礼如さんの額に入った写真が微かに白く闇の中に浮きあがっ…

向田邦子「かわうそ」

指先から煙草が落ちたのは、月曜の夕方だった。 宅次は縁側に腰かけて庭を眺めながら煙草を喫(す)い、妻の厚子は座敷で洗濯物をたたみながら、いつものはなしを蒸し返していたときである。 二百坪ばかりの庭にマンションを建てる建てないで、夫婦は意見がわ…

竹西寛子「管絃祭」

春の彼岸である。 東京は、まだ寒い。 町家に挟まれた浄念寺では、先刻から通夜の読経が続いている。古い造りの、町なかにしては大きな本堂だが、入口の階段下には男の靴も女の靴も数えるほどしかなくて、女物の草履が一足、少し離れた場所に脱がれている。 …

宮本輝「道頓堀川」

三本足の犬が、通行人の足元を縫って歩いてきた。耳の垂れた、目も鼻も薄茶色の痩せた赤犬だった。/まだ人通りもまばらな戎橋を南から北へと渡りきると、犬は歩を停めてうしろを振り返った。

宮本輝「螢川」

銀蔵爺さんの引く荷車が、雪見橋を渡って八人町への道に消えていった。/雪は朝方やみ、確かに純白の光彩が街全体に敷きつめられた筈なのに、富山の街は、鈍い燻銀(いぶしぎん)の光にくるまれて暗く煙っている。

宮本輝「泥の河」

堂島川と土佐堀川がひとつになり、安治川(あじかわ)と名を変えて大阪湾の一角に注ぎ込んでいく。その川と川がまじわる所に三つの橋が架かっていた。昭和橋と端建蔵橋(はたてくらばし)、それに船津橋である。/藁や板きれや腐った果実をうかべてゆるやかに流…

村上龍「コインロッカー・ベイビーズ」

女は赤ん坊の腹を押しそのすぐ下の性器を口に含んだ。いつも吸っているアメリカ製の薄荷入り煙草より細くて生魚の味がした。泣き出さないかどうか見ていたが、手足を動かす気配すらないので赤ん坊の顔に貼り付けていた薄いビニールを剥がした。段ボール箱の…

村上龍「限りなく透明に近いブルー」

飛行機の音ではなかった。耳の後ろ側を飛んでいた虫の羽音だった。蠅よりも小さな虫は、目の前をしばらく旋回して暗い部屋の隅へと見えなくなった。 天井の電球を反射している白くて丸いテーブルにガラス製の灰皿がある。フィルターに口紅のついた細長い煙草…

池波正太郎「毒」

その日。そのとき……。 長谷川平蔵は、金竜山・浅草寺の仁王門を通りぬけようとしていた。 師走(陰暦十二月)中旬の、或日の昼下りのことで、風も絶えた暖かい日和の所為(せい)もあり、観世音菩薩を本尊とする名刹・浅草寺境内の雑踏ぶりは、久しぶりに浅草…

後藤明生「挾み撃ち」

ある日のことである。わたしはとつぜん一羽の鳥を思い出した。しかし、鳥とはいっても早起き鳥のことだ。ジ・アーリィ・バード・キャッチズ・ア・ウォーム。早起き鳥は虫をつかまえる。早起きは三文の得。わたしは、お茶の水の橋の上に立っていた。夕方だっ…

森敦「月山」

ながく庄内平野を転々としながらも、わたしはその裏ともいうべき肘折(ひじおり)の渓谷にわけ入るまで、月山がなぜ月の山と呼ばれるかを知りませんでした。そのときは、折からの豪雪で、危く行き倒れになるところを助けられ、からくも目ざす渓谷に辿りついた…

藤沢周平「暗殺の年輪」

貝沼金吾が近寄ってきた。 双肌(もろはだ)を脱いだままで、右手に濡れた手拭いを握っている。立止まると馨之介(けいのすけ)の顔はみないで、井戸の方を振向きながら、 「帰りに、俺のところに寄らんか」 と言った。 時刻は七ツ(午後四時)を廻った筈だが、…

三木卓「鶸」

その兵士は肩から吊している自動小銃をゆすりながら近づいて来、台の上にならべられた煙草の前まで来ると無造作に手を伸ばして一箱ずつポケットに入れはじめた。最初はズボンの左右に、それから外套に外側から縫いつけてある大型のものに、落着いた手付きで…

開高健「夏の闇」

その頃も旅をしていた。 ある国をでて、べつの国に入り、そこの首府の学生町の安い旅館で寝たり起きたりして私はその日その日をすごしていた。季節はちょうど夏の入口で、大半の住民がすでに休暇のために南へいき、都は広大な墓地か空谷にそっくりのからっぽ…

曾野綾子「落葉の声」

収容所の廊下の壁にそってかけられた人々の写真は、どれも魚の顔のようであった。その眼は大きく見開かれ、眼球のまわりに薄い眼瞼の皮膚がまつわりついているので、それも、魚の眼とそっくりであった。一人くらい笑っている写真はないものだろうか。生まれ…

庄野潤三「絵合せ」

炬燵で宿題をしている良二が、うつむいている顔を上げて、何か考えようとすると、額に不揃いな皺が寄る。 小学二年の時に(いまは中学二年だが)、学校の廊下を走っていて、友達とぶつかって大きなこぶが額に出来た。友達の方は前歯がぐらぐらになった。 ど…

円地文子「遊魂」

葵祭は雨になれば一日延びるそうなと聞かされて、朝の寝ざめにもまず空あいが気にかかっていたのであろう。ふらふらベッドから起き出して障子風に紙を貼ったホテルの内窓を明けて見ると、下の方の白っぽく灰をまぶしたような古い屋根瓦の連りの先に河原が見…

清岡卓行「アカシヤの大連」

かつての日本の植民地の中でおそらく最も美しい都会であったにちがいない大連を、もう一度見たいかと尋ねられたら、彼は長い間ためらったあとで、首を静かに横に振るだろう。見たくないのではない。見ることが不安なのである。もしもう一度、あの懐かしい通…

あまんきみこ「おにたのぼうし」

せつぶんの夜のことです。/まこと君が、元気にまめまきを始めました。/ぱら ぱら ぱら ぱら/まこと君は、いりたてのまめを、力いっぱい投げました。/「福はあ内。おにはあそと。」/茶の間も、客間も、子ども部屋も、台所も、げんかんも、手あらいも、て…

黒井千次「時間」

――火をとめておいた方がよくはないか。 ビールのコップを持った中腰の浅井が彼の横にいた。昔のままの、浅黒い、頬骨の張った小柄な顔だった。卒業してから分厚い肉を身体につけていない数少ない顔の一つだ。このまま背広を学生服かスエターに替え、靴下をと…

阿部昭「大いなる日」

さよならだ。永かったつきあいも、これでさよならだ。僕はいちばん古い友達をなくした。……〔中略〕 僕はさいしょ、何の気なしに正面の玄関のほうへ歩き出した。すると、誰かが暗い廊下のむこうで僕を呼んだので、思い違いをしていたことに気がついたのだった…