2009-01-01から1年間の記事一覧

空海『性霊集』

遠くして遠からざるは即ち我が心なり。絶えて絶えざるは是れ吾が性(しょう)なり。 〈解釈〉遠くにあるようでいて、遠くはないのが己の心である。己と隔絶しているようでいて、隔絶していないのが己が本来そなえている仏となるべき本性である。

鴨長明『鴨長明集』

あればいとうそむけばしたう数ならぬ身と心との中ぞゆかしき 〈解釈〉いっしょにいればうとましく思い、別々の方向に行けば行ったで逢いたくなってくる、このとるに足らぬ身と心との間柄、いったいどうなっているのか知りたいものだ。

道元『学道用心集』

若し人の賞翫(しょうがん)すれば、縦い非道なりと知るとも、乃ち之を修行す。若し恭敬讃嘆(くぎょうさんたん)せざれば、是れ正道(しょうどう)なりと知ると雖も、棄てて修(しゅ)せず、痛ましいかな。 〈解釈〉もしも世間(よのなか)の人がほめそやせ…

源信『往生要集』

何が故に、刹那の苦果(くか)に於いて、なお堪え難きことを厭い、永劫の苦因に於いては、自(みずか)ら恣(ほしいまま)に作られんことを欣(ねが)うや。 〈解釈〉どうして目先の苦しみには、あたふたとこれからのがれようとするのに、長い目で見たときに…

蓮如『蓮如上人御一代記聞書』

人の悪(わろ)きことはよくよく見ゆるなり、我が身の悪きことは覚えざるものなり。 〈解釈〉他人の悪はよく目につき、見えるのであるが、自分自身の悪についてはなかなか気づかないものである。

一休宗純『一休骸骨』

いずれの時か夢のうちにあらざる、いずれの人か骸骨にあらざるべし。 〈解釈〉人生はことごとく夢まぼろしの連続である。われわれの着飾ったこのからだも、ひと皮むけば骸骨でしかないのだ。

『無量寿経』

人は世間愛欲の中に在りて、独り生じ、独り死し、独り去り、独り来(きた)る。行いを当(お)いて苦楽の地に至り趣(おもむ)く。身(み)自(みずか)ら之を当(う)く。代わる者有ること無し。 〈解釈〉人間はこの愛欲の世間のなかで、ひとりで生まれ、ひ…

『法華経』

内衣(ないえ)の裏に無価(むげ)の宝珠(ほうじゅ)有ることを覚(さと)らず。 〈解釈〉自分の着ている衣の裏にこのうえない宝の珠がぬいつけてあることに気がつかない。

夏目漱石「英文学形式論」

さもあれ、吾々が彼等の持つ歴史的趣味から自由であると云ふことは、一方から見れば幸福であるが、他方から見れば不幸である。一方に束縛を持ない為、他方に彼等と同じ趣味を共有する権利を失つて居る。それで、吾々が英文の形式を取捨するに当つて第一に重…

夏目漱石「英文学形式論」

ブルックは「文学の形式は読者に快楽を与へるやうに排列した言葉である」と云つて居る。私も一切著作(エニー、リットュン、ウァーク)の形式(フォーム)は趣味(テースト)――好(ライク)、不好(ディスライク)の義で、哲学上の六ヶ(むずか)しい意味ではない――に訴…

夏目漱石「英文学形式論」

吾々の日常使用する言語の中には、其の内容の曖昧朦朧(ヴェーグ、アンド、オブスキューア)なものが多い。吾々は此を使用するに当り、その内包、外延(インテンスィーヴ、アンド、ヱキステンスィーヴ)の意味(ミーニング)を知らずに唯曖昧の意味を朧げに伝へる…

夏目漱石「マクベスの幽霊に就て」

文学は科学にあらず。科学は幻怪を承認せざるが故に、文学にも亦幻怪を輸入し得ずと云ふは、二者を混同するの僻論なりと。去れど文芸上読者若(もし)くは観客の感興を惹き得ると同時に、又科学の要求を満足し得んには、何人も之を排斥するの愚をなさざるべし…

夏目漱石「小説『エイルヰン』の批評」

著者の考と評者の考とは必ず一致するものではない。評論其物が精確であれば、著者は之に対して郢書燕説(えいしょえんせつ)の不平を持込むべき次第のものではない。鳴雪や子規が頻りに蕪村の句を評して居るが、銘々区々である。時としては何れも蕪村の意を得…

夏目漱石「小説『エイルヰン』の批評」

然し文学は情に訴ふるものであるといふ事を思ひ、吾人の情は如何に幼稚であるかを思ひ、又情の極即ち愛の前には如何なる条理も頭が上がらぬ事を思へば、「アレン」は失敗して、「ダントン」は成功したと云はねばならぬ。

夏目漱石「小説『エイルヰン』の批評」

理の勝つ時には情の勢力を無視し易きものである。又情の理に後るゝ事を忘却し易きものである。一概には申されまい。

夏目漱石「小説『エイルヰン』の批評」

偖(さて)人の言語動作は、己の知り得たる理に基かずして、己の養ひ得たる情に基くものである。日清戦争の当時如何に御札御守の類が流行したかを知れば、如何に吾人の感情が幼稚にして、又勢力あるかを知るに足るだらう。

夏目漱石「小説『エイルヰン』の批評」

情も変遷するに違ひない。然し理と手を携へて並行に進むものではない。太古結縄(けつじょう)の民と汽車汽船に乗る吾々とは、理に於て非常な差があるかも知れぬが、情より論ずれば夫程の差はあるまい。近い例が十四五年前に言文一致の議論が大分盛(さかん)な…

夏目漱石「小説『エイルヰン』の批評」

英国の小説を読んで第一に驚かされるのは、非常に長たらしいと云ふ事である。無論短いのもあるが、十八世紀より今世紀へかけて出版になつた大部分の小説は皆冗漫なものだ。少くとも無用の篇を省いて、此半分につゞめたら善(よか)ろと思ふ位である。尤も前方…

夏目漱石「英国の文人と新聞雑誌」

此稿は極めて乱雑であるが一括して云へば初の新聞紙は皆政治的のものである。政治的でないものも文学的趣味に乏しかつたのである。夫が段々発達して有(あら)ゆる種類の文学が新聞雑誌の厄介になると云ふ時代になつた。是に連(つ)れて文学者と新聞雑誌との関…

夏目漱石「英国の文人と新聞雑誌」

文人詩人の資格を具へて居つても眼丁字(ちょうじ)なしと云ふ様な者は詩想を表彰する事が出来ぬから論外である。文章を綴り句を成す力量があつても陶淵明や寒山拾得の様な人々は自分の作を天下後世に伝へたいと云ふ考がないから是も特別である。然し一般に文…

夏目漱石「『トリストラム、シヤンデー』」

「スターン」死して墓木(ぼぼく)已に拱(きょう)す百五十年の後日本人某なる者あり其著作を批評して物数奇(ものずき)にも之を読書社会に紹介したりと聞かば彼は泣べきか将(は)た笑ふ可きか

夏目漱石「『トリストラム、シヤンデー』」

僧侶として彼は其説教を公にせり、前後十六篇、今収めて其集中にあり、去れども是は単に其言行相(あい)背馳して有難からぬ人物なる事を後世に伝ふるの媒(なかだち)となるの外、出版の当時聊(いささ)か著者の懐中を暖めたるに過ぎねば、固(もと)より彼を伝ふ…

夏目漱石「『トリストラム、シヤンデー』」

今は昔し十八世紀の中頃英国に「ローレンス、スターン」といふ坊主住めり、最も坊主らしからざる人物にて、最も坊主らしからぬ小説を著はし、其小説の御蔭にて、百五十年後の今日に至るまで、文壇の一隅に余命を保ち、文学史の出る毎に一頁又は半頁の労力を…

夏目漱石「英国詩人の天地山川に対する観念」

高が一匹の鼠なり。而も穀作に害を与ふる鼠なり。今之をとらへて、君はわが同輩なりと云ふ。誰か其新奇なるに驚かざらん。去はれ生を天地の間に享くる者は、螻蟻(ろうぎ)の微と雖ども、皆有情の衆生なり。たとひ万物の霊なりとて、故なくして之を戕(そこな)…

夏目漱石「英国詩人の天地山川に対する観念」

人世に不平なれば、必ず之を厭ふ。世を厭ひて人間を辞職するものあり。小心硜硜(こうこう)の人これなり。世を厭ひて之を切り抜けるものあり。敢為(かんい)剛毅の人これなり。濁世と戦つて屈せざるものは、固より勇気なくては叶はぬ事。五十年の生命を抛(なげ…

夏目漱石「英国詩人の天地山川に対する観念」

文学上に出来する事件を極広く見積れば、人間界の事か、非人間界の事に外ならず。(是は仔細らしく文学に就て申す迄もなく、凡て吾人思想の及ぶものは、、皆此二者の内を出でざるは勿論ながら)偖(さて)非人間界にあつて、尤も吾々の注意を惹くものは、日月…

夏目漱石「文壇に於ける平等主義の代表者『ウォルト、ホイットマン』Walt Whitmanの詩について」

空言は実行に若かず“How beggarly appear arguments before a defiant deed!”家庭は大道に若かず一家に恋々たる者は田螺のわび住居を悦ぶが如く蝸牛の宅を負ふてのたり/\たるが如く牡蠣の口堅く鎖して生涯滄海を知らざるが如し。此世界は競争の世界なり安…

夏目漱石「文壇に於ける平等主義の代表者『ウォルト、ホイットマン』Walt Whitmanの詩について」

元来共和国の人民に何が尤も必要なる資格なりやと問はゞ独立の精神に外ならずと答ふるが適当なるべし。独立の精神なきときは平等の自由のと噪(さわ)ぎ立るも必竟机上の空論に流れて之を政治上に運用せん事覚束なく之を社会上に融通せん事益(ますます)難から…

夏目漱石「文壇に於ける平等主義の代表者『ウォルト、ホイットマン』Walt Whitmanの詩について」

然る処天茲(ここ)に一偉人を下し大に合衆聯邦の為に気焔を吐かんとにや此偉人に命じて雄大奔放の詩を作らしめ勢は高原を横行する「バッファロー」の如く声は洪濤(こうとう)を掠(かす)めて遠く大西洋の彼岸に達し説く所の平等主義は「シェレー」「バイロン」…

夏目漱石「文壇に於ける平等主義の代表者『ウォルト、ホイットマン』Walt Whitmanの詩について」

革命主義を政治上に実行せんと企てたるは仏人なり之(これ)を文学上に発揮したるは英人なり。