2015-03-01から1ヶ月間の記事一覧

白井喬二「富士に立つ影 裾野編 愛鷹山史話」

富士の裾野のひと目に見わたせる愛鷹山の頂きは海抜千百八十尺、江戸からざっと三十里だが、この山懐には猿がいた、猪がいた、高さのわりあいに噞岨で見た目より谷間が深かった。これを連れ立って裾野の方へ迫って越前ガ岳、呼子ガ岳、鋸ガ岳、位牌ガ岳、黒…

長与善郎「竹澤先生と云ふ人」

「竹澤先生と私」 かう云ふ一つの題目が、決定的な気持ちでふつと自分の頭にうかんだのは、実に告別式の当日、先生の遺族と吾々ごく親しい者だけが先生の柩の後に蹤いて、霙のふる中を墓地へ行くあの途中の俥の中でゞあつた。人間はどんな哀しみのさ中にも何…

細見綾子

女身仏(にょしんぶつ)に春の剥落つづきをり

葛原妙子

あやまちて切りしロザリオ転がりし玉のひとつひとつ皆薔薇

谷崎潤一郎「蘆刈」

まだをかもとに住んでゐたじぶんのあるとしの九月のことであつた。あまり天気のいゝ日だつたので、ゆふこく、といつても三時すこし過ぎたころからふとおもひたつてそこらを歩いて来たくなつた。遠はしりをするには時間がおそいし近いところはたいがい知つて…

谷崎潤一郎「蓼喰ふ虫」

美佐子は今朝からときどき夫に「どうなさる? やつぱりいらつしやる?」ときいてみるのだが、夫は例の孰方(どつち)つかずなあいまいな返辞をするばかりだし、彼女自身もそれならどうと云ふ心持もきまらないので、ついぐづぐづと昼過ぎになつてしまつた。一時…

谷崎潤一郎「痴人の愛」

私は此れから、あまり世間に類例がないだらうと思はれる私たち夫婦の間柄に就て、出来るだけ正直に、ざつくばらんに、有りのままの事実を書いて見ようと思ひます。それは私自身に取つて忘れがたない貴い記録であると同時に、恐らくは読者諸君に取つても、き…

三橋鷹女

鞦韆(しゅうせん)は漕ぐべし愛は奪ふべし

寺山修司

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

長谷川伸「夜もすがら検校」

音もなく降りつづく雪の中に旅姿の盲人がただ一人、両手をあげて狂気のように叫んでいる。 街道とはいえ里はずれ、人家は遥かに遠く盲人は、むざんな雪の苛責にとじこめられて泣き叫ぶ声すらが冷たい雪に籠められて遥かな人里に届こうはずはなかった。 「り…

稲垣足穂「星を売る店」

日が山の端(は)に隠れると、港の街には清らかな夕べがやってきた。私は、ワイシャツを取り変え、先日買ったすみれ色のバウを結んで外へ出た。 青々と繁ったプラタナスがフィルムの両はしの孔のようにならんでいる山本通りに差しかかると、海の方から、夕凪時…

渡辺白泉

戦争が廊下の奥に立つてゐた

中城ふみ子

メスのもとひらかれてゆく過去がありわが胎児らは闇に蹴り合ふ

吉増剛造「花火の家の入口で」

薄いヴェールの丘にたち、静かに?病い?を待っている ――Gelson(ジェウソン)の言葉 ?木の葉に貌を埋(うず)めて一角獣は考えていた 宇宙船には繻子(しゅす)の靴がない? USP(ウスピ)(サンパウロ大学)の正門の傍に立って居る ――お嬢さん、月の桂、……。鞣(な…

瀧井孝作「無限抱擁」

根津にある松子の母親の寓居(かりずまひ)で、元日の昼過ぎ、信一が其処の隣りやお向う等への年礼を済ました。信一は暮に松子と結婚し両人(ふたり)は一緒に根津の母の家に居て年を越した。松子は暮に感冒の熱を発し未だ気分がすぐれず簡単に曲げた髪で茶の間…

三橋敏雄

いつせいに柱の燃ゆる都かな

森岡貞香

月のひかりとなりし畳に子を招べば肢影ながく曳き少年は来ぬ

吉岡実「薬玉」

菊の花薫る垣の内では 祝宴がはじめられているようだ 祖父が鶏の首を断ち 三尺さがって 祖母がねずみを水漬けにする 父はといえば先祖の霊をかかえ 草むす河原へ 声高に問え 母はみずからの意志で 何をかかえているのか みんなは盗み見るんだ たしかに母は陽…

江戸川乱歩「怪人二十面相」

その頃、東京中の町といふ町、家(うち)といふ家では、二人以上の人が顔を合はせさへすれば、まるでお天気の挨拶でもするやうに、怪人「二十面相」の噂をしてゐました。 「二十面相」といふのは、毎日々々、新聞記事を賑はしてゐる、不思議な盗賊の渾名です。…

江戸川乱歩「押絵と旅する男」

この話が私の夢か私の一時的狂気の幻でなかつたならば、あの押絵と旅をしてゐた男こそ狂人(きちがひ)であつたに違いない。だが、夢が時として、どこかこの世界と喰違つた別の世界を、チラリと覗かせてくれる様に、又狂人が、我々の全く感じ得ぬ物事を見たり…

江戸川乱歩「二銭銅貨」

「あの泥棒が羨しい」二人の間にこんな言葉が交される程、其頃は窮迫してゐた。場末の貧弱な下駄屋の二階の、たゞ一間(ひとま)しかない六畳に、一貫張りの破れ机を二つ並べて、松村武とこの私とが、変な空想ばかり逞しうして、ゴロ/\してゐた頃のお話であ…

高柳重信

樹々ら いま 切株となる 谺かな

生方たつゑ

おのづから枯れし樹骸がたつなぎさ放たれてあればまた孤(ひとり)なり

吉原幸子「夜間飛行」

夜の公園に しやぼん玉が 三つ 四つ 五つ どこからともなく 吹かれてくる ねむつてゐるだれかのゆめのやうに 光りながら

大佛次郎「角兵衛獅子」

先刻(さつき)の時雨は、今、東寺のあたりを降つてゐるらしい。五重の搭の影を暗くして、鉛色の雲が重く、その辺の空を蔽つてゐます。 搭の向ふは、茶色に汚れた平野、その先の遠い山脈(やまなみ)にはもう灰色の靄が絡まつてゐます。鳩がかじかんで棲(とま)つ…

金子兜太

彎曲し火傷し爆心地のマラソン

佐藤佐太郎

夕映(ゆうばえ)のおごそかなりしわが部屋の襖をあけて妻がのぞきぬ

長谷川龍生「友だちI」

鳴かない鳥が 枝という枝にとまって 偽一重まぶたを 見ひらいたままでいる。 だまって弱者と共倒れしていく大樹海の彼方に 灰のあたたかさ。 思考化声を知らない友だちを先にやれ ひき裂かれる朝に目ざめない友だちを先にやれ 友だちの倫理とはかくなるもの…

野上弥生子「海神丸」

十二月二十五日の午前五時、メイン・トップ・スクウナ型六十五噸の海神丸は、東九州の海岸に臨むK港を出帆した。目的地は其処から約九十海里の、日向寄りの海に散在してゐる二三の島々であつた。島からは、木炭と木材と、それから黒人仲間で五島以上だと云…

福田甲子雄

靄あげて種蒔くを待つ大地かな