2011-02-01から1ヶ月間の記事一覧

四方田犬彦『貴種と転生・中上健次』

それでは彼はなぜ生涯にわたって短歌を詠まなかったのか。それは天皇が短歌を詠みはするが、けっして俳句を詠まないことと関係している。

四方田犬彦『貴種と転生・中上健次』

中上健次は生涯にわたって実兄の命日の意味について、沈黙を続ける。

四方田犬彦『貴種と転生・中上健次』

中上健次が生涯にわたって言及しなかったもののリスト。イギリス文学。江戸趣味。フロベール的なニヒリズム。別荘。バッハ。下町探検。新古今和歌集。パウル・クレー。着物の柄(彼は鏡花の偉大さを認めていた)。都市としての京都。美食。要するに中産階級…

勝小吉『夢酔独言』

岩のかどにてきん玉を打つたが、気絶をしていたと見へて、翌日漸々人らしくなつたが、きん玉が痛んであるくことがならなんだ。 二、三日過ぎると、少しづゝよかつたから、そろ/\とあるきながら貰つていつたが、箱根へかゝつてきん玉がはれて、うみがしたゝ…

勝小吉『夢酔独言』

おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまり有るまいとおもふ。故に孫やひこのために、はなしてきかせるが、能/\不法もの、馬鹿者のいましめにするがいゝぜ。

柄谷行人『探究I』

デカルトの「神」にかわって、共同主観性や社会的制度、あるいは共通感覚や集合無意識といったものがもちだされる。これらは、「私」を一般者につなぐためのさまざまな意匠にすぎない。これらが、「神」の代替物であり、またデカルトの論証と同じ循環論的困…

柄谷行人『探究I』

しかし、私は、自己対話、あるいは自分と同じ規則を共有する者との対話を、対話とはよばないことにする。対話は、言語ゲームを共有しない者との間にのみある。そして、他者とは、自分と言語ゲームを共有しない者のことでなければならない。そのような他者と…

柄谷行人『探究I』

「教える―学ぶ」という関係を、権力関係と混同してはならない。実際、われわれが命令するためには、そのことが教えられていなければならない。われわれは赤ん坊に対して支配者であるよりも、その奴隷である。つまり、「教える」立場は、ふつうそう考えられて…

中沢新一『チベットのモーツァルト』

つまり丸石は、なにかの意味の隠喩であったり、観念を模倣するものではなく、宇宙的なリズム、呼吸とでも呼ぶべきものの感覚的抽象化にほかならないのである(これに較べれば、男根を模倣した石などたかが知れたものではないか)。このため丸石は生命/非生…

中沢新一『チベットのモーツァルト』

石は、地上と地下との、日常的な人の世界と異界との、生きているものと生きていないものとの、もっと神話的なレヴェルでは、現世と冥界との、生者と死者との、現在と過去との、そして心のなかで意識と無意識との閾(しきい)=境を越え出ていく力をもってい…

芹沢俊介『母という暴力』

母というのは自分以上の自分だと鶴見俊輔は言います。生まれる以前にすでに子どもの自己は、望んだわけでもないのに母に領有されてしまっているのです。この事態は暴力であり、子どもの自己にとって死に相当するといえるのではないかと思います。教育は子ど…

芹沢俊介『母という暴力』

暴力という言葉を据えてみると、生んだこと、生んでしまったことの暴力性が、子どもたちからの「どうして」とか「なんで」という絶望的な問いかけのなかにあぶりだされてきているのがわかるのです。しかし、生んでしまったこと、生んだことの現実は取り返し…

神谷美恵子『生きがいについて』

しかし伊藤によると、原爆被害者たちは一般にすべてを否定しながら、なお自己否定に到達していないという。その理由は、彼らが一種の特権意識を持っていて、それが自己肯定を可能ならしめているという。このことは、らい患者にもよく見られることである。 否…

神谷美恵子『生きがいについて』

ほんとうに生きている、という感じをもつためには、生の流れはあまりになめらかであるよりはそこに多少の抵抗感が必要であった。したがって生きるのに努力を要する時間、生きるのが苦しい時間のほうがかえって生存充実感を強めることが少なくない。ただしそ…

神谷美恵子『こころの旅』

エリクソンのこしらえた概念でもっとも興味あるものの一つは「ネガティヴ・アイデンティティ」である。彼によるとアイデンティティの感覚を失った場合、それはしばしば、家庭や地域社会で提供される役割を拒否するかたちとしてあらわれる。男性としての役割…

神谷美恵子『こころの旅』

ただ、人間学的にみると、妊婦の存在というものは、他に類例のない特異な状況におかれているというほかはない。それまで女性はひとりの個人であり、一つの主体であった。ところが今や胎内にべつの個人、べつの主体が宿り、女性の身体は、この新しい個人に対…

村井実『道徳は教えられるか』

つまり道徳を知識として教えるということは、第一に、知識の「授受」ではなくて、「理解」を言うのであり、しかもそれは、「教える」という言葉の制限された意味での働きかけとして考えられることが正当なのである。 かりに道徳に知的以上のどのような要素が…

村井実『道徳は教えられるか』

したがって私たちは、生徒がより広く、より深く、より高度な「理解」に到達することを望み、そのために最善をつくしはするけれども、生徒が間違いを犯したり、問題の解決に失敗したりしないことを保証することができるわけではない。これが私たちが「教える…

小泉文夫『日本の音』

しかし音楽は反面、限られた社会や地域の中で伝統的に組み立てられた独自の体系を持っており、この体系は単に偶然的に立てられたものでも、音楽だけの範囲で抽象的につくり出されたものでもない。その国、その民族の言語や習慣や思想、信仰そしてひろく社会…

小泉文夫『日本の音』

このジャズは、そのものが与えた影響は絶大なものがあると思います。ほとんど世界中の音楽が、何らかの意味でこのジャズの影響下にあるといっても過言ではないでしょう。即ち、二十世紀を代表する最も大きな特徴は何かといえば、実はこのアフリカ音楽だとさ…

山口昌男『文化と両義性』「岩波現代文庫版のためのまえがき」

「違和」とはもともと「からだの調和が破れること」という意味であり、転じて「他のものとしっくりしないこと。ちぐはぐ」(『広辞苑』)とされる。つまり、「違和」という語の原義は身体というミクロコスモスに関わるものであり、内部性の表現であったという…

山口昌男『文化と両義性』「岩波現代文庫版のためのまえがき」

「違和」と「異和」のちがいにもそのようないきさつがある。私が「違」と「異」とを使いわけたのは二つの間に微妙なニュアンスの「ちがい」があると思ったからである。「違」には同質のものの間の微妙なちがいがある。「内側」に属するもののちがいである。…

宮本常一『家郷の訓』

森に風のあたる音と波の音――それは私の気象台でもあった。

宮本常一『家郷の訓』

土はあたたかいものであるとともに、またきびしいものであった。このきびしさは土に生きるものが最もよく知っていたのである。故に土の掟に従ったのである。自らの生活にそのきびしさに応えるだけの態度がなくては真に百姓は勤まらない。父はこれを、 「土の…

小林秀雄『本居宣長』

敢て繰返そうか。

小林秀雄『本居宣長』

私達は、話をするのが、特にむだ話をするのが好きなのである。言語という便利な道具を、有効に生活する為に、どう使うかは後の事で、先ず何を措いても、生まの現実が意味を帯びた言葉に変じて、語られたり、聞かれたりする、それほど明瞭な人間性の印しはな…

江藤淳『決定版 夏目漱石』

小説とは知っている答えをわざと書かないようにしないとうまく成功しないのであります。

江藤淳『決定版 夏目漱石』

作家達は、自らの信じているもの、自らの描いている人物が「亡霊」であると、その「新しさ」に追跡されつづけている心の底では感じながら、「亡霊」を描きつづけ、信じつづけねばならなかった。これは花袋以来、彼らの横面を張りつづけて来た西欧文芸の強烈…

藤原新也『死ぬな生きろ』

日本列島は北海道、本州、四国、九州と主に四つの島からなるわけだが、四国という島は他の三島とはどこか趣が異なっている。 少し宙に浮いていると言ったらいいのかも知れない。 妙な言い方だが、四国を訪れるときいつも感じる思いがそれなのだ。少し宙に浮…

藤原新也『死ぬな生きろ』

蜜柑も ほとけに見える 四国の底力