引用

クロード・シモン『アカシア』(平岡篤頼 訳)

彼が知っている二軒は(いまは彼には、時々そこへ行ったのも彼の生涯のファンタスチックなくらい遠い昔――というかむしろべつの人生、いわば先の世の人生だったような気がし、なにか(場所も――当然おなじ場所だし――人間も――やはりおなじ人間たちだったが、そ…

クロード・シモン『アカシア』(平岡篤頼 訳)

ふたりの姉妹、このふたりの女は何歳も年下の弟のいわば母親役をつとめたのだったが、どんな男も触ったことのない彼女たちの乳房から乳を与えたというのではなくて、言うなれば彼女たち自身の肉(というかむしろ彼女たちの肉の欲望の拒否)で彼を養ったので…

谷川俊太郎「家族」

お姉さん 誰が来るの 屋根裏に 私達が来ています お姉さん 何が実るの 階段に 私達が実っています 弟よ 私とおまえとお父さんお母さん 外は旱天(ひでり)で 私達は働いています 誰が食べるの テーブルの上のパンを 私達が食べるのよ 爪でむしって では 誰が飲…

クロード・シモン『アカシア』(平岡篤頼 訳)

いまはぱかっぱかっと鳴る蹄の音に、油のきれた車軸のきしむ音や車輪の下で小砂利がはじけるちいさな音が混じっていた。そしてそれだけのことで、この二重の流れ、逆方向にすすむ二重の行列があるだけで、騎兵たちの顔はどれもおなじ動きで左側を向き、彼ら…

谷川俊太郎「夢」

風 それは吹いているだろう 花 それは咲くだろう 空 それは青いだろういつまでも だが 夢 それは破れるだろう 路地を曲る二人 彼等は今夜一緒に寝るだろう 酒場の小椅子の下の煙草の空箱 それは朝燃(も)されるだろう 雨 それはもうすぐ小降りになる だが夢 …

クロード・シモン『アカシア』(平岡篤頼 訳)

というのも、彼らをつつむ濃い闇のなかで、その音はどちらかの方向への、なんらかの速度での移動も進行も感じさせなかったからだった。だから(受け身で、雨と疲労に背中をまるめ)騎兵たちは床に螺子(ねじ)でとめられ、精妙な機械仕掛で並み足の馬のいくぶ…

谷川俊太郎「牧歌」

陽のために 空のために 私は牧歌をうたいたい 人のために 土のために 私は牧歌をうたいたい 真昼のために 深夜のために 私は牧歌をうたいたい 名も知らぬ若木の下に立ちどまって 虻の羽音に耳をすまし 陽のささぬ路地の奥で 子供の立小便をみつめていたい う…

クロード・シモン『アカシア』(平岡篤頼 訳)

したがって彼がまともに自問することができるすべてと言えば、せいぜい最初のゼロの右側の小数点のあとにどれだけゼロを並べてからどんな少数の数字、この二十六年のあいだに彼にとって生起したことに掛けるのに(つまり、割るのに、その本来のサイズにもど…

クロード・シモン『アカシア』(平岡篤頼 訳)

箱のなかみたいに鉄道列車の車室の内部の冷えた石炭の臭いのするシートに横たわって、今ではなにか強烈な化学反応、対立矛盾する物質のなにか硫黄臭い沸騰の名残りとさえ言えない、怠惰と呑気な無気力の――せいぜい言って優柔不断な期待の、二十六年という歳…

谷川俊太郎『愛について』「私の言葉3」

あなたの意見は正しい あなたの意見は正しくない その少女の鼻は美しい その少女の鼻は美しくない 四月の風は快よい 四月の風は快よくない 私の愛しているいない 私の疲れているいない 私の言葉は誰のもの? 私の言葉は壁のもの 私の言葉は空のもの 愛するひ…

クロード・シモン『アカシア』(平岡篤頼 訳)

(彼が従妹に、韻をふんだ甘い言葉かなにかを一度も捧げたことのない珍しい男のひとりだったのも、きっと怠けぐせからだったにちがいなく、もしかしら気がきかなかったために、署名なしで、パンティと黒のストッキングだけの小生意気な女が煙の輪を吐いてい…

クロード・シモン『アカシア』(平岡篤頼 訳)

「が昨日書いたとおりです。あたしはただ……」――というのもそんなこと、彼女自身の母親との関係ですら、いまでは彼女は彼に頼っていて、自分はオルガスム的で生暖かい至福の大海に漂いつづけていたからで、彼のほうは寸のつまった、鮮明で、放ち書きの、命令…

谷川俊太郎『愛について』「私の言葉2」

私のうそへ私は行き 私のうそから私は帰る 沈黙が私とうそとを距てる時 枕が固すぎて私は眠れぬ夜をすごす 花が私のうそを追いかけてくれる時 私のうそを私は撲(う)つ 愛が私のうそに背を向ける時 私は小さなpenisyを連れてうろうろする 私が黙って夜空を私…

クロード・シモン『アカシア』(平岡篤頼 訳)

……というわけでやっと、今度は彼女が絵葉書を送るようになったのだったが、それまで一度もバルセロナ、パリ、あるいはボルドーよりそれほど遠くへ行ったことがなく、離郷や興奮や異国趣味に関していえば、シャンティイのパドックや闘牛の試合やオペラ座の夜…

クロード・シモン『アカシア』(平岡篤頼 訳)

彼女は清純だったのではなくて、いわば性がなかったのだった。それはまるで、彼女のキャミゾール風ドレスがかくしている雪のように白い腹と、その下で太腿が左右に分かれているあたりのすべすべした茂みの秘めているものが、消化吸収と排泄という生理的機能…

谷川俊太郎『愛について』「私の言葉1」

ぼくは大声で呼んでいた 雲は綿菓子になってくれなかった 空は窓になってくれなかった ぼくはそれから稲叢(いなむら)のかげにかくれて ジュリエットを呼んだ ジュリエットは息をきらして駈けてきた ぼくはいつまでもかくれていた ぼくは息を殺して黙っていた…

クロード・シモン『アカシア』(平岡篤頼 訳)

地区の土地台帳のかなり大きな部分が、フランス大革命やナポレオン帝政の軍隊の陣頭に立って、家長の祖父が轟かせた家名をになっていたが、それは一種の大男で、たんに巨人みたいに背が高かっただけでなく、怪物じみた体重の持ち主で、いまでもそれが当時の…

谷川俊太郎「kiss」

目をつぶると世界が遠ざかり やさしさの重みだけがいつまでも私を確かめている…… 沈黙は静かな夜となって 約束のように私たちをめぐる それは今 距てるものではなく むしろ私たちをとりかこむやさしい遠さだ そのため私たちはふと ひとりのようになる…… 私た…

クロード・シモン『フランドルへの道』(平岡篤頼 訳)

というようなわけで彼の馬に依然として並み足をとらせていたのだがそれは父祖の昔から彼がはげしい無理を要求した後では馬に息をつかせてやらねばならないということを習っていたからでだからこそおれたちは亀みたいにおごそかな歩みでいかにも貴族らしく悠…

谷川俊太郎「空の噓」

空があるので鳥は嬉しげに飛んでいる 鳥が飛ぶので空は喜んでひろがっている 人がひとりで空を見上げる時 誰が人のために何かをしてくれるだろう 飛行機はまるで空をはずかしめようとするかのように 空の背中までもあばいてゆく そして空のすべてを見た時に …

クロード・シモン『フランドルへの道』(平岡篤頼 訳)

というわけでもしかしたら彼女が彼のうちに道具(いわば男根のかたちをした陽物神的なちょうどあのなんといったかな日本の人妻たちが踵にしばりつけ、東洋人のいささかアクロバット的な性の技巧に特有の窮屈な姿勢でその上に坐り、それでわが身を裂き、彼女…

クロード・シモン『フランドルへの道』(平岡篤頼 訳)

そこでおれがいいかげんにしてくれ!そういって起きあがったが彼女がおれをなぐったのでベッドにひっくりかえってしまいなおも彼女はなぐりつづけ、おれのすぐそばの彼女の顔からなにかどくどくというような音彼女が懸命にこらえようとする音が聞こえたしか…

谷川俊太郎『六十二のソネット』「62 (世界が私を愛してくれるので)」

世界が私を愛してくれるので (むごい仕方でまた時に やさしい仕方で) 私はいつまでも孤りでいられる 私に始めてひとりのひとが与えられた時にも 私はただ世界の物音ばかりを聴いていた 私には単純な悲しみと喜びだけが明らかだ 私はいつも世界のものだから…

クロード・シモン『フランドルへの道』(平岡篤頼 訳)

なにを考えてるのよ返事していったいどこにいるのよ?と彼女がいったのでおれがふたたび手をその上において、ここにいる、すると彼女、ちがうわ、そこでおれ、おれがここにいると思わないのか? おれは笑おうとしたが彼女はちがうわあたしといっしょになんか…

谷川俊太郎『六十二のソネット』「60 (さながら風が木の葉をそよがすように)」

さながら風が木の葉をそよがすように 世界が私の心を波立たせる 時に悲しみと言い時に喜びと言いながらも 私の心は正しく名づけられない 休みなく動きながら世界はひろがっている 私はいつも世界に追いつけず 夕暮や雨や巻雲の中に 自らの心を探し続ける だ…

クロード・シモン『フランドルへの道』(平岡篤頼 訳)

網の目のように交錯した溝が道の亜麻色の砂の上をはしり斜面のへりがすこしずつくずれそがれてこまかい連続的な地すべりを起こしすべり落ちしばらくは網の目の一本の枝を埋めてしまうがそれからまた雨水に洗われ浸食され押し流されて消えてゆき切れ目のない…

谷川俊太郎『六十二のソネット』「56 (世界は不在の中のひとつの小さな星ではないか)」

世界は不在の中のひとつの小さな星ではないか 夕暮…… 世界は所在なげに佇んでいる まるで自らを恥じているとでもいうように そのようなひととき 私は小さな名ばかりを拾い集める そしていつか 私は口数少なになる 時折物音が世界を呼ぶ 私の歌よりももっとた…

クロード・シモン『フランドルへの道』(平岡篤頼 訳)

とにかくそいつがだしぬけにまるで毛布を頭から投げつけられて逃げだせなくなったみたいにおれに襲いかかり、いきなりあたり一面完全に真暗になった、もしかしたらおれは死んでしまったもしかしたらあの歩哨が先におれよりすばやく発砲したのかもしれず、も…

谷川俊太郎『六十二のソネット』「45 (風が強いと)」

風が強いと 地球は誰かの凧のようだ 昼がまだ真盛りの間から 人は夜がもうそこにいるのに気づいている 風は言葉をもたないので ただいらいらと走りまわる 私は他処(よそ)の星の風を想う かれらはお互いに友達になれるかどうかと 地球に夜があり昼がある その…

クロード・シモン『フランドルへの道』(平岡篤頼 訳)

それからいきなり声が変わり、調子はずれの、ふたまわりも大きい、つんざくような声で、「そこでそのデジャニールがだな……」、そこでジョルジュ、「ヴィルジニーだよ」、そこでブルム、「なにが?」、そこでジョルジュ、「ヴィルジニーという名前だったんだ…